日本企業の競争優位喪失
1.はじめに
日本の大企業は1950年代後半からの高度経済成長期を初めとして、長期的に安定成長を続けていたが、1980年代半ばよりその成長は鈍化した。以降のバブル経済とその崩壊も含めて、日本の大企業群は国際競争力を失い、かつての繁栄を失ったかに見え、かつその状況は現在に至るまで変わっていない(と、一般に言われている)。そこで本稿では、1980年代後半において日本企業はなぜ競争優位を喪失したかを、日本企業内部の変化、そして日本企業を取り巻く外部環境の変化という2つの視点から複合的に考察することにしたい。
2.日本企業内部の変化から
戦後の日本企業は、例えばトヨタ自動車にとっての豊田市や刈谷市のように、特定の都市に本社機能ならびに生産設備を置き、子会社・下請け・孫請けといった系列企業をも集中させた企業城下町を形成した。企業城下町とは、「低地価と広大なスペース、そして豊富な低労働賃金力を背景に、特定大企業が巨大な生産設備を建設し、地域の政治、経済、社会の根幹的地位を占め、さらに、地域を構成する諸要素を吸収しながら、特定大企業そのものが地域と重なり合う得意な空間」(関満博,「地域産業の未来」p44,有斐閣,2001)であり、特定地域に子会社・下請け・孫請けも含めた生産設備を集中させることによって規模の経済性を発揮し、国際競争力を生み出すものであった。
しかし、1980年代後半からの日本企業(ないしは、日本の企業グループ)において起きた変化がこうした競争優位の源泉を崩壊させたのではないかと私は考える。その変化の第一は、それまでの日本企業を支えてきた系列的・閉鎖的な取引関係の崩壊である。上述の「企業城下町」方式による規模の経済性の獲得は、親会社を頂点とする閉鎖的な系列取引が確立していたからこそ実現出来たものではなかろうか。ところが、系列取引が崩壊する中で、親会社は部品や原料の安定供給を受ける事が出来なくなり、またそれまで親会社の庇護のもと、ある意味では競争から無縁の存在であった子会社・下請け・孫請けは他グループの子会社・下請け・孫請けとの競争に晒されることになってしまったのである。これが”ケイレツ取引”に基づく日本企業の競争優位性を損なう一因であったのは想像に難くない。
3.外部環境の変化から
外的要因の変化としては、第一に貿易の自由化が挙げられる。高度経済成長期の日本経済は、通産省による対外閉鎖的な産業育成政策の庇護の下で育てられてきた。しかし「高度成長を経験し、世界第二の経済大国にのし上がった日本に対して、海外の圧力は強まり、貿易自由化(1961年)、資本の自由化(1966年)と続き、そして1971年のニクソンショック、1973年の第一次オイルショックは、日本産業を本格的な開放体制へと導いた」(関満博,上掲書,p35)ことが、日本経済発展のブレーキとなった。これに加えて、1985年のプラザ合意によって円・ドルが変動相場制に移行し、以降急激に進んだ円高によって、輸出依存型の経済成長を続けてきた日本経済は決定的な打撃を受けることになる。変動相場制の元で圧倒的価格優位を競争力の源泉として輸出産業を発展させてきた日本にとって、プラザ合意はまさに大打撃だったのではなかろうか。
外的環境の変化の第二は、韓国ならびに中国を初めとする新興国の台頭である。日本の所得水準は経済発展によって飛躍的に向上しており、それゆえに日本国内における労働力はこれら新興国のそれに比べて安いものではなくなっていた。そのため、これら新興国が一定の経済成長を遂げ、
日本企業の競争優位喪失
1.はじめに
日本の大企業は1950年代後半からの高度経済成長期を初めとして、長期的に安定成長を続けていたが、1980年代半ばよりその成長は鈍化した。以降のバブル経済とその崩壊も含めて、日本の大企業群は国際競争力を失い、かつての繁栄を失ったかに見え、かつその状況は現在に至るまで変わっていない(と、一般に言われている)。そこで本稿では、1980年代後半において日本企業はなぜ競争優位を喪失したかを、日本企業内部の変化、そして日本企業を取り巻く外部環境の変化という2つの視点から複合的に考察することにしたい。
2.日本企業内部の変化から
戦後の日本企業は、例えばトヨタ自動車にとっての豊田市や刈谷市のように、特定の都市に本社機能ならびに生産設備を置き、子会社・下請け・孫請けといった系列企業をも集中させた企業城下町を形成した。企業城下町とは、「低地価と広大なスペース、そして豊富な低労働賃金力を背景に、特定大企業が巨大な生産設備を建設し、地域の政治、経済、社会の根幹的地位を占め、さらに、地域を構成する諸要素を吸収しながら、特定大企業そのものが地域と重なり合う得意な空間」(関...