十四世紀の半ばに、大和猿楽の結崎座の棟梁であった観阿弥を父として生まれた世阿弥は、新熊野神社での猿能楽で翁を演じた際に将軍足利義満から認められて側に置かれるまでになり、低い身分でありながら、都で高等教育を受けるなどした。将軍の寵愛を得たために、他の貴族たちからも特別な扱いを受けた。しかし後に二度将軍が変わり(義光→義持→義教)将軍の好みが変わったこともあって、段々良く扱われなくなっていった。そして長男を亡くし、次男は芸を継がなかった。さらに義教に佐渡島に流され、やっと赦されて帰郷した時には八十歳であり、間もなく世を去ったという人生を送った人である。
「まことの花」は追求するべき美として説かれている。美とは、誰が見ても美しいと思われるもので、普遍的であり理想的だ。少数の貴人や目利きにも、その他の人々にもそう思われるものだ。現実の、植物としての「花」は、貴人から庶民まで、ほとんどすべての人々に「美しい」と受け取られる、珍しく普遍性のあるものである。故に、能の演技で何かにとりつかれたり、愛や欲望に狂ってしまった「物狂い」が季節の花を身につけていたりすると、まだ一片の共同の人間性を保とうとしているのが分かり、哀れを誘う。人間であるが故に、誰でも陥る可能性のある危機である「物狂い(発狂)」は親しい人に先立たれる悲しみなど、その引き金は日常のそこここに隠れているのだろう。しかし能の上での物狂いはあくまでも舞台の上のことで、劇の中のことである。故に観客は安心して見ていられる。さらに、劇中から人間的、精神的に良いものを感じ取れることが大事だ。後味が悪いだけの結果にはしてはならない。最後には面白かったといって帰ってもらえるように、と説いている。
現在から六百年も前に、一人の能楽師が後継者に向けて記した奥義書「風姿花伝」は、能という舞台芸術の演技・教育の指南書としてだけではなく、翻訳されて世界各国で出版されるほど、人生論としての価値を持っていると言われている。秘伝「風姿花伝」は明治以降になって、初めて公開され、後に海外にまで紹介された日本の各道の奥義・秘伝書の中の一つだった。
十四世紀の半ばに、大和猿楽の結崎座の棟梁であった観阿弥を父として生まれた世阿弥は、新熊野神社での猿能楽で翁を演じた際に将軍足利義満から認められて側に置かれるまでになり、低い身分でありながら、都で高等教育を受けるなどした。将軍の寵愛を得たために、他の貴族たちからも特別な扱いを受けた。しかし後に二度将軍が変わり(義光→義持→義教)将軍の好みが変わったこともあって、段々良く扱われなくなっていった。そして長男を亡くし、次男は芸を継がなかった。さらに義教に佐渡島に流され、やっと赦されて帰郷した時には八十歳であり、間もなく世を去ったという人生を送った人である。
風姿花伝には、能楽の継承と発展のために「花(演者)である資格のある者」にのみ伝える事項が書かれていた。また風...