1972年後半から1974年前半にかけてハイパーインフレーションが日本全土に猛威をふるった。インフレ対策として統制、投機取締りにうったえる道と、正統的な財政金融引き締めによる道がある。政府は両方の政策を採ったが、戦時下の統制の記憶からインフレ対策の主役は、財政金融政策が演ずることとなる。田中内閣は石油危機直前に預金金利を引き下げ、新幹線計画を公表し、2兆円減税を指示していた。しかし、1974年度予算は、2兆円減税を残しながらも、公共投資などに削減の大ナタが振るわれた。1974年の選挙により保革伯仲が実現したことにより、引き締め早期緩和の期待は裏切られ、総需要抑制の長期化が必至となり、前向きの在庫投資は、過剰在庫と化した。
金融政策は1973年から、財政政策は1974年度から引き締めに転じた。しかし、インフレーションは容易には収まらず、そのなかで不況が進行した。金融引き締めと並行して長期期待成長率の下方シフトが生じ、これが消費や雇用に大きな影響を及ぼしたといえる。
「安定成長への模索」
1972年後半から1974年前半にかけてハイパーインフレーションが日本全土に猛威をふるった。インフレ対策として統制、投機取締りにうったえる道と、正統的な財政金融引き締めによる道がある。政府は両方の政策を採ったが、戦時下の統制の記憶からインフレ対策の主役は、財政金融政策が演ずることとなる。田中内閣は石油危機直前に預金金利を引き下げ、新幹線計画を公表し、2兆円減税を指示していた。しかし、1974年度予算は、2兆円減税を残しながらも、公共投資などに削減の大ナタが振るわれた。1974年の選挙により保革伯仲が実現したことにより、引き締め早期緩和の期待...