ドイツでは1870年代中盤からカルテルが増え始め、1930年代冒頭までには2000〜4000のカルテルが存在したといわれている。さらにナチスが政権を握ってからは、強制カルテル法が施行され、ドイツ経済はカルテルにまみれていく。しかし第2次世界大戦以後、連合軍がそれぞれの占領地においてカルテル解体法を制定することで、ドイツは初めて自由競争と競争的思考を得ることになる。ところが、実はこのカルテル解体法以前にも、戦前から国内でカルテル法を立案しようという動きはあった。というのも、第1次世界大戦後にドイツの経済は悪化の一途をたどったためである。そして第2次世界大戦後のドイツの荒廃ぶりは凄惨を極めた。アメリカ大統領ローズヴェルトの側近であったポプキンズに「これは第2のカルタゴである」と言わしめたほどである。
こうした状況を経験し、ドイツの経済学者達は独自の路線を開拓していく。この先鋭となったのがレオンハイト・ミクシュやバルター・オイケンなどの人物であり、この学派は彼らの依拠した機関誌に由来してオルド自由主義とか、彼らの集った大学からフライブルク学派と呼ばれる。もしくは古典派自由主義の更に上をいくべきリベラリズムという意味において新自由主義ともいわれる。ただし、新自由主義といってもここで挙げるそれにはフォン・ハイエクやレプケなどは含まない。
ドイツでは1870年代中盤からカルテルが増え始め、1930年代冒頭までには2000~4000のカルテルが存在したといわれている。さらにナチスが政権を握ってからは、強制カルテル法が施行され、ドイツ経済はカルテルにまみれていく。しかし第2次世界大戦以後、連合軍がそれぞれの占領地においてカルテル解体法を制定することで、ドイツは初めて自由競争と競争的思考を得ることになる。ところが、実はこのカルテル解体法以前にも、戦前から国内でカルテル法を立案しようという動きはあった。というのも、第1次世界大戦後にドイツの経済は悪化の一途をたどったためである。そして第2次世界大戦後のドイツの荒廃ぶりは凄惨を極めた。アメ...