自由意志とは何か。自由意志に対して自然現象が因果的に世界の運命を決定しているとする決定論とはどのような関係にあるのだろうか。
「因果律によって生起するものは、全て常に何らかの先行要因を有することになり、全ての自然現象は因果の連鎖の中に存在することになる。かかる自然必然性の下では、自由の存在する余地はない。だがしかし我々は人間の実践的行為を考える時、自由を前提せざるをえない。ここに周知の自由と自然の二律背反が成立することになる。」(「カント哲学の人間的地平」p.172 l.3)
我々人間の実践的行為において、自由意志とはどのような意味を有するのか。我々の行為は我々自身の意志によって決められていると言えるのだろうか。
例えば、A君が家から出る時に雨が降っているとする。これは自然現象であり、我々の意志によって自由に決められることではない(この場合の「自由」は他には「雨は降らない」という選択肢があるということを意味する)。しかし、A君が傘を持って行くか持って行くまいかという行為(人間の実践的行為)は、ある意味では雨が降っている(=自然現象)から因果的にA君は傘を持っていく、ということになるし、またある意味ではA君は傘を持っていくのは面倒だからといって、彼の意志によって自由に「傘を持っていかない」という行為を決定できることにもなる。
ここで疑問なのは、A君が「傘を持っていく」という行為をする場合には「自然現象に因果的に従っている」のか、もしくは「A君の自由意志によって行為している」のかがはっきりしないのではないか、ということである。A君は雨が降ったら当然のように傘を持っていくべきであるという習慣を持っていて、特別な意志を持たずに因果的に行為するかもしれない。
では、文化とは何であるのか。A君にとっての習慣・文化はA君の過去や生い立ちに因果的に影響されて形成されているものである。
自由意志とは何か。自由意志に対して自然現象が因果的に世界の運命を決定しているとする決定論とはどのような関係にあるのだろうか。
「因果律によって生起するものは、全て常に何らかの先行要因を有することになり、全ての自然現象は因果の連鎖の中に存在することになる。かかる自然必然性の下では、自由の存在する余地はない。だがしかし我々は人間の実践的行為を考える時、自由を前提せざるをえない。ここに周知の自由と自然の二律背反が成立することになる。」(「カント哲学の人間的地平」p.172 l.3)
我々人間の実践的行為において、自由意志とはどのような意味を有するのか。我々の行為は我々自身の意志によって決められている...