国際関係学レポート

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    国際関係学 レポート
    吉田 茂-尊皇の政治家-
    第1章 人生草創-維新の激流に生る-
    明治11(1878)年9月22日に吉田茂は生を受けた。その年は西南戦争終結1周年であった。前年(明治10年)2月から7ヶ月にわたって世上を漬乱し、維新政権を震撼させたあの西南戦争は、西郷隆盛の自刃をもって終わった。その4年前の明治6年、参議西郷隆盛らの征韓論が、欧米訪問から帰国したばかりの岩倉具視(右大臣)、大久保利通(参議)らの猛反対に遭って敗北、これを機に西郷はじめ板垣退助、後藤象二郎、江藤新平ら政府中枢の人びとが下野した。この政権分裂の一大事こそ、まさに西南戦争に連なる歴史のひとこまとなるのである。                 
    吉田茂が現し世に生まれ落ちたその日は、新生日本がまさに西南戦争の余燼にまみれつつ国家と天皇の守護を旧特権階級の武士層にではなく、農工商を含む「天下万民」に託そうとしたその秋でもあった。国家近代化の波に洗われて急速に没落していく旧武士層の経済的窮状はもの哀しくもあった。士族が妻子を飢えさずに生計を立てる道があるとすれば、彼らの軽蔑する商人、工人、農民になるほかはなかった。
     吉田茂は、竹内綱を父とし瀧子を母とする7男7女の5男として東京に産している。茂が竹内姓から吉田に改姓されたのは、茂が生まれて間もなく綱の親友吉田健三の養子として転籍したからである。つまり吉田茂にはそもそも2人の父親がいたことになる。いや、後年茂の岳父となる牧野伸顕を加えれば、吉田の父は3人を数えることになる。しかも、これら3人の父親が吉田の人生に落としたその影は、長くそして濃密である。実父竹内綱が吉田にその血脈と天賦の資質を与えたとすれば、養父吉田健三は茂に訓育と莫大な資産を給した。そして、明治の元勲大久保利通の次男すなわち牧野伸顕は、女婿吉田茂にいわば栄達の閨閥と権力の強縁を供した。
     竹内13代目の当主竹内綱は、土佐藩重臣伊賀家の家臣であった。綱は伊賀家歩兵の伍長から始まって弱冠20歳で重役になり、文久2年、23歳で目付役を命ぜられている。版籍奉還(明治2年)とそれに続く廃藩置県(明治4年)を経て明治国家体制はいよいよその起点を固めていくが、それとともに竹内の活躍舞台が大きく広がったことは事実である。とくに実業家としての彼の行動は際立っている。後藤象二郎主宰の蓬莱社から高島炭坑(長崎県)の経営を任されたのが明治7年、竹内の事業欲は何も炭坑開発に限られてはいなかった。鉄道経営には彼のビジネスの最たるものであったといってよい。明治27年、竹内は朝鮮視察後、尾崎三郎らとともに政府に対して京釜・京仁の2つの鉄道敷設計画を提議している。ここで重要なのは竹内のこうした実業家としての行動が、実は彼の政治的な行動と蜜に絡んでいたということである。例えば前記京釜鉄道の経営権を竹内が得ることについては、彼らなりの国家的使命感とともに、利権にかかわる種々の政治的配慮が蠢いていたといってよい。竹内のこうした政商的な顔は、彼のすべてを語っているわけではない。実業家竹内のキャリアは、彼のいま1つの顔、すなわち国家揺藍期にあって「国のかたち」を追い求める政治家竹内綱の面目と重ねてみる必要がある。竹内が江戸最末期の若い頃から国の行く末を案じ、政治に並々ならぬ関心を抱いていたことは間違いない。彼は攘夷論渦巻く文久3年、24歳のときに高知で後藤象二郎と初対面し、たちまち彼とは心腹の友となる。両人が攘夷反対、朝廷・幕府間の「調和」、国内物産開発と貿易振興、ボルネオ・スマトラなど南洋未開地への

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    吉田 茂-尊皇の政治家-
    第1章 人生草創-維新の激流に生る-
    明治11(1878)年9月22日に吉田茂は生を受けた。その年は西南戦争終結1周年であった。前年(明治10年)2月から7ヶ月にわたって世上を漬乱し、維新政権を震撼させたあの西南戦争は、西郷隆盛の自刃をもって終わった。その4年前の明治6年、参議西郷隆盛らの征韓論が、欧米訪問から帰国したばかりの岩倉具視(右大臣)、大久保利通(参議)らの猛反対に遭って敗北、これを機に西郷はじめ板垣退助、後藤象二郎、江藤新平ら政府中枢の人びとが下野した。この政権分裂の一大事こそ、まさに西南戦争に連なる歴史のひとこまとなるのである。                 
    吉田茂が現し世に生まれ落ちたその日は、新生日本がまさに西南戦争の余燼にまみれつつ国家と天皇の守護を旧特権階級の武士層にではなく、農工商を含む「天下万民」に託そうとしたその秋でもあった。国家近代化の波に洗われて急速に没落していく旧武士層の経済的窮状はもの哀しくもあった。士族が妻子を飢えさずに生計を立てる道があるとすれば、彼らの軽蔑する商人、工人、農民になるほかはなかっ...

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