「人間としてのイエス」を語るということ[早稲田・文学部・評価A]

閲覧数2,834
ダウンロード数7
履歴確認

    • ページ数 : 3ページ
    • 会員880円 | 非会員1,056円

    資料紹介

    「イエス・キリスト」ではなく、「ナザレのイエス」と表現される時、私はある独特の感覚を持つ。それは、「人間としてのイエス」が語られているという感覚である。それが正しいのかどうかは分からない。一般には、「ナザレのイエス」=「イエス・キリスト」という意味で使われることも少なくないからだ。
     しかし、少なくとも、今回このレポートを書くにあたって、私が参照した「人間としてのイエス」を主題にすえた本は、いずれも「ナザレのイエス」という項目を必ず備えていた。これは、今までの他のキリスト教の本には見られなかったことである。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    「人間としてのイエス」を語るということ
     「イエス・キリスト」ではなく、「ナザレのイエス」と表現される時、私はある独特の感覚を持つ。それは、「人間としてのイエス」が語られているという感覚である。それが正しいのかどうかは分からない。一般には、「ナザレのイエス」=「イエス・キリスト」という意味で使われることも少なくないからだ。
     しかし、少なくとも、今回このレポートを書くにあたって、私が参照した「人間としてのイエス」を主題にすえた本は、いずれも「ナザレのイエス」という項目を必ず備えていた。これは、今までの他のキリスト教の本には見られなかったことである。
     そこで、本レポートにおいては、単に「イエス・キリスト」についてではなく、「人間としてのイエス」を語るということはどういうことか、について考察してみたい。というのは、「人間としてのイエス」について書かれた本を読み進めるうちに、私は次第にある違和感を抱かざるを得なくなっていったからである。
     イエスを歴史的にとらえようとする学問的・批判的研究は、18世紀後半のドイツで開始された。そして、西暦2000年を目前にした昨今(とは言え、イエスの生誕は...

    コメント1件

    morishoh 購入
    内容はまとまっていてわかりやすかった。しかし句読点の間違いが少し多いのが気になった。
    2006/07/28 0:39 (18年4ヶ月前)

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。