1.『感情の猿=人』第三章論評
この章の『表情の「豊かさ」とはなにか』の節で、雌猿プークに関する記述に興味を持った。「あらゆる顔面動作は他者を操作する信号である」という仮説に対する否定的例証であるが、この例が指しているように、表情が必ずしも自身の感情を伝達しているわけではないことに初めて気がついたのである。併記されている「思い出し笑い」の例はより卑近でわかりやすいが、そもそも平時においても自身の表情は絶えず作られているわけで、そのときの表情が他者を操作する信号であるはずがないのである。
ここであらためて私の発見を述べると、我々は常に「表情」を持っているが、我々自身は普段そのことに無頓着であり、他者にどのようなメッセージを伝えているか、ということに考えが及びもしないということである。このことを明確に打ち出している本章は、合点のいく部分が相当にあった。そして、「顔面」こそが「表情」の最も中心的な存在である理由として、顔面の部位の一次的機能とそこから生み出される表情との乖離が豊かな「表情」を生むという意見は、確かに正鵠を射ているといえる。
2.『感情の猿=人』第五章論評
首狩り族の風習をとりあげた本章では、首狩りの動機を「リゲト」だと指摘し、首狩り族が首狩りにいたるまでの思考と動機について首狩りを是認するような印象で書かれている。つまり、首狩りを未開の人間の野蛮な風俗だとするのではなく、「同じ人間」としての心のうねりと感情の動態の中で把握しようとしている。このこと自体は、構造主義を掲げたレヴィ=ストロースにも通ずる超近代的な、きわめて当然の理解であるといえよう。
感情の実現について
0.はじめに
人間がもっているような知性を他の生き物はもたない、それは確かである。同じ哺乳類に属する動物
でも人間に匹敵する知性を有するものは他にいない。では感情はどうだろうか。感情に関してもある程
度同じようなことはいえるだろう。昆虫やきのこに感情と呼べるものはないだろうからである。
しかし、少なくても哺乳類には人間に匹敵するか、もしくはそれ以上に豊かな感情生活を営んでいる
ものがいると私は考える。犬や猫を飼ったことのある人で彼らが感情を持たないと思っている人はおそ
らくいるまい。知性よりも感情の方が生物にとってずっと基本的なものだと考える。
イルカを自閉症の子供のセラピーに使う試みがアメリカで盛んらしいが、それが可能なのはイルカの
知性の高さもさることながら、彼らが豊かな感情生活を営んでいるからではないかと私は考えている
(嘘をつく能力を彼らは持っているけど、優しいがゆえにあえて嘘をつかないのだと聞いたことがあ
る。)
1.『感情の猿=人』第三章論評
この章の『表情の「豊かさ」とはなにか』の節で、雌猿プークに関する記述に興味を持った。「あら
ゆる顔面...