戦争や平和に対して、子どもの認識を問う前に、教師の認識はどうなっているのかというと、これも問われるべきである。1976年に創刊した『(季刊)平和教育』の第1号でも、「平和教育の体制づくりでおそらくいちばん厄介なのは平和教育の必要性についての全教師の意識や意見のちがいであろう。(中略)平和教育を特殊な教育とみないで、これからの人類の教育の基本とみる視点を確立しなければならない。(中略)現代において平和を問うことは教師にとっては自己の教育観・人生観を問うところまで行くはずである。相互の意見を大切にしながら科学的・価値的認識の一致をねばりづよく追及していくべきである」と、教師の問題点を指摘する。教師に対する実態調査結果はないが、意識的に「平和教育」に取組んでいない限り、おそらく今でも多くの教師が「平和教育」=「反戦教育」と考えているのではないか。いや、それならまだ良い方で、「平和教育」について考えたこともないような教師もいるかもしれない。30年前は確かに「平和教育」=「反戦教育」であったが、それでも筆者の受けた授業や教育実習を考えてみると、「厄介な」問題点は解決していないと思われる。「教師は、子どもたちの生活事実にそくして、『他者』と『自己』、『もの』と『からだ』、『自己』と『世界』との断裂を超えて、それらの平和的関係性の意味と価値を学びとらせていくことを課題としなければならないのである」という。そのような共通認識が教師に求められている。
次に、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」大学では、平和についてどのような授業が行われているのであろうか。
1988年9月15日、世界の諸大学の学長たちは、「学長会議タロアール宣言」を発表し、21世紀の安定した国際秩序を創り出すためには平和の研究と教育が必要だと訴えた。
平和に対する教師の認識と大学の実態
戦争や平和に対して、子どもの認識を問う前に、教師の認識はどうなっているのかというと、これも問われるべきである。1976年に創刊した『(季刊)平和教育』の第1号でも、「平和教育の体制づくりでおそらくいちばん厄介なのは平和教育の必要性についての全教師の意識や意見のちがいであろう。(中略)平和教育を特殊な教育とみないで、これからの人類の教育の基本とみる視点を確立しなければならない。(中略)現代において平和を問うことは教師にとっては自己の教育観・人生観を問うところまで行くはずである。相互の意見を大切にしながら科学的・価値的認識の一致をねばりづよく追及していくべきである」と、教師の問題点を指摘する。教師に対する実態調査結果はないが、意識的に「平和教育」に取組んでいない限り、おそらく今でも多くの教師が「平和教育」=「反戦教育」と考えているのではないか。いや、それならまだ良い方で、「平和教育」について考えたこともないような教師もいるかもしれない。30年前は確かに「平和教育」=「反戦教育」であったが、それでも筆者の受けた授業や教育実習を考えてみると、「厄介な」問題点...