今回のレポートは漢代諸子についてという題目だったので、私は『史記』でも有名な前漢代の歴史家である司馬遷について調べてまとめることにした。
司馬遷(前145〜前86)は、中国前漢時代の歴史家である。姓は司馬、名は遷、字は子長。左馮翊夏陽(陜西省韓城県)の人。周代の記録係である司馬氏の子孫であり、太史令の司馬談の子として生まれた。彼は10歳頃から古文を誦し、20歳前後で揚子江から山東方面にわたって史跡を調査する大旅行に出た。また38歳の時に父の後をついで太史令となり、朝廷秘蔵の資料を自由に閲覧できるようになった。しかし、47歳の時、司馬遷に転機が訪れる。司馬遷は、その当時匈奴討伐に失敗して捕虜になってしまった李陵の忠誠と勇戦を称えた。しかし、そのことが武帝の憤怒を買って獄につながれ、翌年の天漢3年(前98年)には宮刑(性器を切り取って生殖能力を絶ち、子孫の繁栄を不可能とする刑罰)に処せられてしまった。その2年後に大赦されて中書令にとりたてられ、前86年60歳にて死去したのではないかと言われている。司馬遷の主な功績としては太初暦の制定などが挙げられるが、なんといっても一番の功績は中国最初の通史である『史記』の編纂である。以下は『史記』の成立とその中に見られる思想についてまとめることにする。
司馬遷の一生について
今回のレポートは漢代諸子についてという題目だったので、私は『史記』でも有名な前漢代の歴史家である司馬遷について調べてまとめることにした。
司馬遷(前145~前86)は、中国前漢時代の歴史家である。姓は司馬、名は遷、字は子長。左馮翊夏陽(陜西省韓城県)の人。周代の記録係である司馬氏の子孫であり、太史令の司馬談の子として生まれた。彼は10歳頃から古文を誦し、20歳前後で揚子江から山東方面にわたって史跡を調査する大旅行に出た。また38歳の時に父の後をついで太史令となり、朝廷秘蔵の資料を自由に閲覧できるようになった。しかし、47歳の時、司馬遷に転機が訪れる。司馬遷は、その当時匈奴討伐に失敗して捕虜になってしまった李陵の忠誠と勇戦を称えた。しかし、そのことが武帝の憤怒を買って獄につながれ、翌年の天漢3年(前98年)には宮刑(性器を切り取って生殖能力を絶ち、子孫の繁栄を不可能とする刑罰)に処せられてしまった。その2年後に大赦されて中書令にとりたてられ、前86年60歳にて死去したのではないかと言われている。司馬遷の主な功績としては太初暦の制定などが挙げられるが、なんといって...