1、 はじめに
第一次世界大戦の直接的な原因は1914年の7月危機にあるとされる。発端となったのは、1914年6月28日に起こった、セルビア人とクロアティア人の民族主義集団によるオーストリア・ハンガリー国の王位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺である。かつてのトルコ領土ボスニアの首都サラエボは、1878年以来オーストリア・ハンガリー国によって管理され1908年に併合されていた。よってスラブ人によるオーストリア・ハンガリー国に対する国民的反感は強く、国王、大統領、指導的政治家などの暗殺事件は珍しくなかった。またこの暗殺事件より約1ヶ月たってからオーストリアからセルビアの方に最後通牒が送られた。このことからもオーストリアのこの暗殺事件に激怒して第一次世界大戦に踏み切ったとは考えにくい。
この7月危機がどのようにして戦争まで発展してしまったのか、各国の思惑もみながら考えていきたい。その際同盟関係が第一次大戦を引き起こしたということも念頭に置き、同盟関係にも注意を払い、それがどのように戦争に関与したかみていくことにする。
2、オーストリアにとってチャンスであったサラエボ事件
ハプスブルク王朝国家が続くかどうかは従属諸民族問題の解決が必須であった。セルビアは1930年来、過激民族主義波の一将校団の支持を背景に、新しい王朝が支配権を握っていたが、彼らはセルビアの国境を広げて外国の支配下に従属しているセルビア系住民を糾合しようと決意していた。
7月危機はなぜ戦争まで発展したか-同盟体制が原因か-
はじめに
第一次世界大戦の直接的な原因は1914年の7月危機にあるとされる。発端となったのは、1914年6月28日に起こった、セルビア人とクロアティア人の民族主義集団によるオーストリア・ハンガリー国の王位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺である。かつてのトルコ領土ボスニアの首都サラエボは、1878年以来オーストリア・ハンガリー国によって管理され1908年に併合されていた。よってスラブ人によるオーストリア・ハンガリー国に対する国民的反感は強く、国王、大統領、指導的政治家などの暗殺事件は珍しくなかった。またこの暗殺事件より約1ヶ月たってからオーストリアからセルビアの方に最後通牒が送られた。このことからもオーストリアのこの暗殺事件に激怒して第一次世界大戦に踏み切ったとは考えにくい。
この7月危機がどのようにして戦争まで発展してしまったのか、各国の思惑もみながら考えていきたい。その際同盟関係が第一次大戦を引き起こしたということも念頭に置き、同盟関係にも注意を払い、それがどのように戦争に関与したかみていくことにする。
2、オースト...