道徳とは何なのか。一番抽象的で一番難しい質問である。かいつまんで言うと、道徳とは「人間の行為の理想的なあり方を表し、そのような行為を導く社会規範」である。こう言われても大筋ではわかるが、細かいところはわからない。しかし、どのような行為が道徳的で、どのような行為が道徳的でないか、一部の複雑な事態を除いて誰もが頭の中で分類できるであろう。
いったい、道徳的だとかそうでないとか、どのように決められるのだろうか。ここに明確な答えはなく、さまざまな考え方がある。私の考えるところでは、道徳の基本となっているのは、自ら他人を不幸にしないこと、そして、他人の幸福の量をふやす事である。自ら他人を不幸にしないとは、他人を不幸にしようと意図して行動しない、ということである。道徳的だと断言できる行為は、すべてがこの原則にしたがっているはずである。
時にこの両者が相反するように見える事もある。大勢を幸せにするために、少数の人を大いに不幸にしてしまう場合である。「自ら他人を不幸にしない」と言ったように、このような行為はするべきではないと私は思う。もし、少数が被るのが少々の不幸であったなら、その行為はするべきかもしれない。少数に「ご迷惑をおかけしますが、○○よろしいでしょうか。」と聞いてみれば良い。道徳的なふるまいをする人ならば快く了承してくれるのではないだろうか。
しかし、そのように道徳的に振舞わない人もいる。今までどのような事かを今まで書いて来たが、では、人は何故道徳的に振舞うのか。
心理学的利己主義と道徳観
道徳教育論レポート
道徳とは何なのか。一番抽象的で一番難しい質問である。かいつまんで言うと、道徳とは「人間の行為の理想的なあり方を表し、そのような行為を導く社会規範」である。こう言われても大筋ではわかるが、細かいところはわからない。しかし、どのような行為が道徳的で、どのような行為が道徳的でないか、一部の複雑な事態を除いて誰もが頭の中で分類できるであろう。
いったい、道徳的だとかそうでないとか、どのように決められるのだろうか。ここに明確な答えはなく、さまざまな考え方がある。私の考えるところでは、道徳の基本となっているのは、自ら他人を不幸にしないこと、そして、他人の幸福の量をふやす事である。自ら他人を不幸にしないとは、他人を不幸にしようと意図して行動しない、ということである。道徳的だと断言できる行為は、すべてがこの原則にしたがっているはずである。
時にこの両者が相反するように見える事もある。大勢を幸せにするために、少数の人を大いに不幸にしてしまう場合である。「自ら他人を不幸にしない」と言ったように、このような行為はするべきではないと私は思う。もし、少数が被るのが少々の不幸であったなら、その行為はするべきかもしれない。少数に「ご迷惑をおかけしますが、○○よろしいでしょうか。」と聞いてみれば良い。道徳的なふるまいをする人ならば快く了承してくれるのではないだろうか。
しかし、そのように道徳的に振舞わない人もいる。今までどのような事かを今まで書いて来たが、では、人は何故道徳的に振舞うのか。
ここに、心理学的利己主義という考え方がある。人が道徳的に振舞うとき、すべては心理学的に利己的に行動している、と言うものだ。私も、この考えに賛成である。たとえば、ボランティアをする事によって、困っている人を助ける事によって、自己満足が得られ、または自分の心の落ち着きが得られるのである。この考えを最初に広めたのはトーマス・ホッブズである。彼は、慈愛について、他者を助ける事で自分が喜びを感じるからとし、憐憫について、他人の不幸に同情し救おうとするのは、他人に自分を重ねているからであるとした。
このように考えると、自らすすんでする行為はすべて利己的な行為なのである。しかし、すべての行動は利己的だと言ってしまうと、大衆の言う、いわゆる「実利を求めた利己」と心理学的な利己とは区別がつかないので、「心理学的な利己」「実利的な利己」と分類するべきであろう。もちろん、さげすむべきは「実利的な利己」である。
しかし、道徳的に振舞う事で自己満足を得られるような人でなければ、道徳的には振舞う事ができない。人の不幸を憐れまず、人の幸せを喜ばないような人は、何を言っても無駄なのである。そういう風な考え方をするようになってしまった人に道徳教育を施すのは非常に困難だと思われる。突き詰めていけば、道徳には原則があっても理由は無い。あなたが対人関係を無視するならば、あなたは他人に対して非道徳的にふるまっても、あなたは(直接には)損をしないのである。
このように考えると、道徳って何なのだろう、と思う事がある。私も幾度も考えた。結局のところ、道徳とは社会秩序を守るための形式上の物なのではないだろうかと。いまの道徳がまったく無視される世界では、人間が幸せに暮らす事など到底不可能なのである。しかし、大勢が道徳的に振舞うならば、道徳的に振舞う人も、非道徳的に振舞う人も、巨視的には幸せに暮らす事ができるのである。ここから、一人くらい非道徳的に振舞っても関係無い、と思う事もできる。しかし、そう思って非道徳的に振舞う人が大半を占めるようになるとダメなのである。私は、非道徳的に振舞ってもいいと思ってそうしようとしても、結局のところ非道徳的には振舞えない。他人の不幸を憐れみ、他人の幸せを喜べるような心が出来ているからである。そのように教育されてきた。
そうなのである。道徳心は、教育されて植え付けられて、そして次の世代に教育し植え付ける。道徳心のあるものは、人を教育するときに道徳心を植え付けない事が出来ない。教育した者が非道徳的に振舞って人を不幸にするのを、教育者の道徳心がゆるせないからである。なんとも不思議で精巧なしくみであろうか。
私たち、将来教師を目指す者は、生徒に道徳教育を施さなくてはならない。人に道徳心を与え、道徳的な振る舞いをさせるには、どのような教育が必要なのだろうか。道徳のようなものは、物心がついたときからの積み重ねである。幼少期からの教育が必要である。幼少期はしていい事いけない事を機械的に教え込むだけしかできないだろうが、小学校高学年にもなると、その辺の判断がつくように教育されていなければならない。
しかし、道徳を教えるという事は、他人の不幸を救って自分の心を落ち着かせることができるようにさせ、他人を幸せにして自分も自己満足することができるようにすることである。それは容易ではない。
私たちに課せられた課題は、どのようにしてそのような人になるように教育できるかを見出す事なのではないだろうか。