人間は唯一の知的動物である。人間は言語を使いコミュニケーションし、数式を操り、文化を形成し、笑うといった高度な感情を示し、さまざまな事を考える。そのような知性は、人類が代々受け継いできたもので、受け継がれければ、人類の知性は存在し得なかっただろう。人間という生物種は、知性を持つことが出来るように出来ているが、教育してやらねば知性を持つことは決して出来ないのである。オオカミに育てられたアマラとカマラは、オオカミから救い出された(この表現は正しいのかどうか、判断は微妙である。何故なら、オオカミといっしょに生活することは、当時彼女らにとってあたりまえであり、人間に連れ出されて環境が変わったことを嫌がったかもしれない。)時には、知性は無く、まったくオオカミと同じ行動をしていた。しかし、彼女らを教育するにつれ彼女らは人間らしさを示し、カマラは片言だが言葉を話すまでになった。
人間の意識の活動には3種類あるといわれ、それはそれぞれ、知性、感情、意志である。知性とは、感覚・知覚によって物を認識し、それを体系だった事としてとらえ、その捕らえたものに対して知覚したものについていろいろと思考をめぐらせ、創造したり、言語によって一般化したり、抽象化した概念にしたりすることである。そして感情は、知覚したもの、あるいは知性によってとらえた事柄に対して、思うことや示す態度のことである。そして意志とは人間の行為を意識的に導く心の働きである。この3つは密接に結びつき、相互に働き合っている。
人類はそのような知性を、有史以前から代々受け継いできた。原始時代では、狩のしかた、住処の作りかたなど他の動物でもやっている事に加えて、火の起こし方、道具の作り方などを受け継ぎ、発展させていった。それが医療、産業、社会など、さまざまな分野で蓄積していって、学習し、さらなる発展をした。さらに、道徳や哲学など、物事の考え方に関する考えなど、高度なものを生み出し、発展させた。私たちは、このような知性を教授し、今ここにいるのである。このような知性は、何も無くても伝わるようなものではなく、そこには何らかのかたちで「教育」がなされてきた。
人間の知性と教育
人間は唯一の知的動物である。人間は言語を使いコミュニケーションし、数式を操り、文化を形成し、笑うといった高度な感情を示し、さまざまな事を考える。そのような知性は、人類が代々受け継いできたもので、受け継がれければ、人類の知性は存在し得なかっただろう。人間という生物種は、知性を持つことが出来るように出来ているが、教育してやらねば知性を持つことは決して出来ないのである。オオカミに育てられたアマラとカマラは、オオカミから救い出された(この表現は正しいのかどうか、判断は微妙である。何故なら、オオカミといっしょに生活することは、当時彼女らにとってあたりまえであり、人間に連れ出されて環境が変わったことを嫌がったかもしれない。)時には、知性は無く、まったくオオカミと同じ行動をしていた。しかし、彼女らを教育するにつれ彼女らは人間らしさを示し、カマラは片言だが言葉を話すまでになった。
人間の意識の活動には3種類あるといわれ、それはそれぞれ、知性、感情、意志である。知性とは、感覚・知覚によって物を認識し、それを体系だった事としてとらえ、その捕らえたものに対して知覚したものについていろいろと思考をめぐらせ、創造したり、言語によって一般化したり、抽象化した概念にしたりすることである。そして感情は、知覚したもの、あるいは知性によってとらえた事柄に対して、思うことや示す態度のことである。そして意志とは人間の行為を意識的に導く心の働きである。この3つは密接に結びつき、相互に働き合っている。
人類はそのような知性を、有史以前から代々受け継いできた。原始時代では、狩のしかた、住処の作りかたなど他の動物でもやっている事に加えて、火の起こし方、道具の作り方などを受け継ぎ、発展させていった。それが医療、産業、社会など、さまざまな分野で蓄積していって、学習し、さらなる発展をした。さらに、道徳や哲学など、物事の考え方に関する考えなど、高度なものを生み出し、発展させた。私たちは、このような知性を教授し、今ここにいるのである。このような知性は、何も無くても伝わるようなものではなく、そこには何らかのかたちで「教育」がなされてきた。その中で基本となっているのは、さまざまな事に関する知識である。親から子へ、師から教え子へ、地域の中で上の世代から若い世代へ、あるいは、書物などを持って著者から、読み手へと遠く離れたところへ。そのような教育をもって、知性は人類全体で共有され、蓄積していったのである。私たちは、それを受け継ぎ、次の世代へと受け継がせる必要がある。
そのような教育をほどこすにはどうしたらよいだろうか。
人間の知能は、知能のレベルはは遺伝的にすべて決まっていると言う知性の生得説と、成長過程での環境によっていくらでも変わるという環境説、そして、その両方が関与していると言う輻輳説、相互作用説があるが、私は、環境説に偏った輻輳説を支持する。知能のレベルなどは遺伝的にある程度決まっているには決まっているが、成長過程での環境、教育などによって大いに変わり得るものであると。
私がこう思うのは、もちろん実例を見てきたからでもある。たとえば、兄弟は非常に遺伝子的にも近いはずなのに、色々な面で大きな違いがあったりする例である。こういった例はよく見られ、環境が大きく関わる事の証拠にもなるだろう。しかし、私がこう思うのは、ほとんどが遺伝的に決まるような事があって欲しくない、という私自身の願いもある。もし、遺伝的にすべてが決まってしまうならば、遠い未来、もしかしたら近い未来の事になるかもしれないが、たとえばスポーツ選手、さまざまなジャンルでの賞の受賞者などの遺伝子が、つまり、精子や卵子が非常に重要なものとして求められ、ひいては多くの親が自分の遺伝子を受け継がない子供を育てるという自体になるかもしれない。そしてそのような遺伝子を引き継いだ子供は、遺伝子製造機としてその生を送るような事になるかもしれない。これはもちろん空想の話だが、近い未来、子のような事が起こらないとは言えない。人間の欲はもしかしたら、このような人類の種の根本を覆してしまうかもしれないのだ。
だから、私は環境によって人間は大いに変わることが出来ると主張する。そこに必要なのは教育である。環境によって大いに変わるならば、それを良い方向に持っていかなければならない。もし、その教育がうまくいけば、環境によって大いに変わることがわかるのではないだろうか。どちらにせよ、私たちはさまざまな教育をして、子供に知性を身につけさせ、それを次の世代に伝えさせなければならない。知性を身につけさせる教育は、知識と、それに対する考え方、そしてどう行動するかすべてを教育しなければならない。
教育とは知識や知能だけを追い求めるものではない。1996年、中央教育審議会の第一次答申で重要といわれたのは「生きる力」である。この答申の中で「生きる力」とは、「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自ら律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性」、「たくましく生きるための健康や体力」と定義されている。こんなものは当たり前で、誰だって言われればわかるものであるが、詰め込み型で機械的だった今までの知識偏重の教育からすれば画期的だ。この「生きる力」は、学校教育だけではなく、地域や家族の教育でも教えられるべきである。
この現代社会の中、学校教育には無かった「生きるための学習」は大切である。私が思うところでは、私たちみんなのすぐ身近にあるはずの、法律についての知識が、一般的に不足していたのではないかと思う。最近はやりの法律系の番組がどうこうではないが、たとえば民法を少しでも知っていたら解決するような問題も、知識が無くてはどうしようもない。法律は私たちの身近にあるはずなのに、どこか遠いところにある感じがする。だからいけないのだ。こんな感じで法律と自分とが切り離されたような感じがあるからこそ、政治への不関心がひどくなると言うものだ。立法など、よく調べれば私たちの知らないところですすんでいたりする。いわゆる「お上」が勝手に決めて、私たちはそれに従うしかない、それではダメなのだ。私は数ヶ月前、著作権法が大きな企業に有利に働き、私たち個人などに不利に働くように改悪されようとしている事を、小耳に挟んだからである。それまで、そんな事が起こっているとはまったく知らなかった。他の大勢の人もそうなのではないだろうか。私が、国民のあまり知らないところで法律が決められていると危惧したのは、こういう事があったからである。法律は、国民がもっとよく知るべきで、国民にもっと開かれているべきなのである。この現状を放っておくと、いずれ大企業や政治家の層と、それ以外の層とで、社会が二分されてしまうのではないかとさえ思ってしまう。
難解な数学や、高度な理科も確かに大事だが、私たちが社会の中で生きるうえでそれよりももっと重要なのは、身の回りの経済や法律、そしてそれを司る政治などの事を知ることである。知識偏重ではなく、生活に必要な、身近なものをもっと重視して教育するべきである。そう思っていた矢先に、私はこんなニュースを知った。「中学校で生活に必要な法律授業、法務省が副教材作成へ」(http://www.yomiuri.co.jp/ main/news/20040731i204.htm)というニュースである。中学生に、社会生活に必要な法律についての知識を学ばせると言うものである。これを見ると、少しずつであるが、そういった教育がされるようになってきているとわかり、期待するとともに少し安心した。
もちろん、「生きる力」とはそれだけではない。「豊かな人間性」ともあるように、人間性や道徳も重要なのである。特に道徳については、さまざまな問題があり、最も力を入れるべき教育の一つでもある。しかし、現在のやり方で道徳教育を続けていては、何ら効果は無いと思う。私の受けてきた道徳教育は、何か教材を読ませるもの、あるいはそれについて何を思うかを書かせるもので、抽象的で非常にわかりにくいものだった。私は小学生時分、何のためにこういった事をやらされているかわからずに、適当にやっていた。それではダメだったのである。
道徳の基礎は、「他人を不幸にしないこと」であると私は思っている。細かい事はここでは置いておくが、そのために必要なのは、他人の不幸を憐れみ、他人に幸せを喜べることだと思う。そういった心は、学校教育の付け焼刃で身につくものではなく、子供のころからの親、地域の住民などの協力し合った教育が絶対に必要である。しかし学校教育は、程度はともかくその一部を担う事は出来る。それは非常に重要だ。今後、道徳教育は「生きる力」の一つとして、もっと有効なやり方で重点をおいてなされるべきである。
ここで、最初に言った事を思い出す。「人類の知性は、代々受け継がれてきたものだ」 道徳教育や生きる力の教育は、学校だけでなく、親もしなければならないと言った。然るに、このような教育は、学校ではもちろんであるが、親から代々受け継がれていくのである。親が道徳や「生きる力」に無関心だと、子供もそのようなことに無関心であり、受け継がれる事無く、そのような知性は廃れていってしまう。それは社会に多大に影響し、さらなる悪循環を生む。
しかし、親が子供に道徳や「生きる力」について教育したならば、彼はそのような知識と心を身につける。そのような知識...