教育課程とは何かについて、その基準と編成原理、今日的課題についてまとめなさい
これまでの日本の教育について教育課程がどのように変化してきているのかを見てみると、大きく3回の教育改革が実施されている。まず明治の学制発布に伴う教育改革である。これは、国民に教育を受ける機会を保障することを中心とするものである。次の改革は、戦後の義務教育制及び民主教育の発足に伴う改革である。この改革によって、進学率は大幅に上昇し、教育は大衆化されることとなる。同時に、いわゆる受験戦争が発生し、詰め込み教育等が問題視されることにもなる。このような状況に対して行われたのが3回目の教育改革で、中央教育審議会や臨時教育審議会を中心として提唱された教育改革である。いじめや不登校、学級崩壊などの教育の荒廃の原因が、受験戦争によって過熱化した学歴社会であるとし、新しい学力観に基づく「ゆとり教育」への転換が始まることとなった。
教育課程の大きな流れを見ていったが、これをもう少し具体的に見ていくと、戦後の教育は大きく分けて、見る・聞く・話すを中心とした経験主義を重視する教育と読み・書き・計算を中心とした系統主義を重視した教育の2極の間で、その時代背景により変化していることがわかる。戦前の「修身」に代表された国家への忠誠心をはぐくむ教育を行っていたが、これが戦後には民主主義教育へと大きく転換することになる。そしてその中でも教育の流れは欧米の経験主義に基づく教育が日本へと導入されたことから、戦後直後の教育はまず系統主義的に整備され、大きく経験主義に傾くことになった。その後、近代化を求める時代へと移っていった時期に教育においては基礎学力の育成が要請されるようになり、再度系統主義へと移行していく。高度経済成長期において、一定の成果をあげた教育であったが、豊かな社会の実現と言われると同時に、学校荒廃の問題が教育界では叫ばれるようになった。具体的には、落ちこぼれや非行の問題である。これらの批判を受けて、改革を通じて導入されたのが「ゆとり教育」であり、この改革によって再び系統主義から経験主義へと移行が行われた。しかし、その後の状況を見ると、これらのゆとり教育は上記の問題の解決へとは明確に結びつかず、さらに学力低下等の他の問題を引き起こしたと考えられている。
このような過程を経て、日本の教育課程は変遷しているが、その教育課程の基準は学習指導要領の制定および改訂によって示されている。この学習指導要領は教育基本法および学校教育法の公布と平行して、昭和22年に最初の指導要領が制定されたが、当初は試案と表現されていた。つまり、当初は学習指導要領によって画一的な教育が意図されたのではなく、あくまでも手引書とする扱いであった。なお昭和33年の改定で、試案の文字は消滅し、同時に学校教育法施行規則の一部を改正し、学習指導要領の法的拘束力を強化している。
教育課程の編成を行う場合は、前提としなければならない原則的事項がある。小学校・中学校それぞれ学習指導要領の第1章総則に4つ示してある。教育課程の編成は、学校の教育目標をもとに、当面する学校の課題や重点事項を明確にして、年間授業時数の配当、週当たりの授業時数を配当、日課表の作成等、各教科・領域等の教育課程編成などをおこなう。これらの編成は校長の編成方針を主体として行うが、実際には校長一人がすべての教育課程を編成するのではなく、組織による分担・協力によって学校として統一された教育課程を編成することになる。
教育課程の変遷をみていくと、その時々に様々な問題があり、その
教育課程とは何かについて、その基準と編成原理、今日的課題についてまとめなさい
これまでの日本の教育について教育課程がどのように変化してきているのかを見てみると、大きく3回の教育改革が実施されている。まず明治の学制発布に伴う教育改革である。これは、国民に教育を受ける機会を保障することを中心とするものである。次の改革は、戦後の義務教育制及び民主教育の発足に伴う改革である。この改革によって、進学率は大幅に上昇し、教育は大衆化されることとなる。同時に、いわゆる受験戦争が発生し、詰め込み教育等が問題視されることにもなる。このような状況に対して行われたのが3回目の教育改革で、中央教育審議会や臨時教育審議会を中心として提唱された教育改革である。いじめや不登校、学級崩壊などの教育の荒廃の原因が、受験戦争によって過熱化した学歴社会であるとし、新しい学力観に基づく「ゆとり教育」への転換が始まることとなった。
教育課程の大きな流れを見ていったが、これをもう少し具体的に見ていくと、戦後の教育は大きく分けて、見る・聞く・話すを中心とした経験主義を重視する教育と読み・書き・計算を中心とした系統主義を重視した教...