都市・パリに見る地域の変化
夏期休暇中にフランスはパリに数週間だけ滞在した。ありとあらゆる場所に足を運んだが、パリは観光名所として名高い場所のみならず街並みだけを切り取って見ても素晴らしい風景が広がっていた。また、パリには様々な時代に建てられた建築物が点在しており、中に入れずともただ眺めて思考しているだけで退屈することはなかった。
パリはセーヌ川に浮かぶシテ島を中心に、中世以降日ランスの首都としてまたヨーロッパ最大の都市としてこれまで大きな発展を遂げてきた場所である。現在のパリの都市構造は、19世紀のナポレオン3世とセーヌ県知事オスマンによる大改造によってほぼ決定された。都市の骨格となるルーブル宮から凱旋門にいたる中心軸や、上下水道、緑地や広場が整備されたオスマン時代の大改造の他にも、現在まで多数の都市計画が実践され、歴代国王や王室建築家によって蓄積された多くの歴史的記念建造物や、古い街区の改修・保存と近代的な改造計画とが並行して行われてきた。幾度もの改造を経てきたパリには、ローマ期から中世、近現代にわたる全ての時代の建築が存在し、そのような建築が構成する都市に見られる新旧の調和や多様性がパリの最大の魅力かもしれない。ここでは、オスマンによる大改造とミッテラン元大統領によるパリ大改造計画(グラン・プロジェ)を例に挙げてパリの地域的特徴を考察したい。
最初に19世紀半ばナポレオン3世とオスマンによって進められたパリ大改造であるが、これは①大通りの新設を軸とする道路網の整備、②公園・広場の造成と整備、③建造物の修復・建設、④上下水道の整備と拡張、⑤街灯の増設、の5つを項目としてほとんど同時に進行した。まず道路網の整備は、パリの美化・衛星化と経済的・軍事目的を同時に実現するための、大改造の根幹となる事業だった。その結果、旧市域の約60%がその姿を変え、現在私たちが地図で目にすることができるパリ市街になった。公園と広場の整備はパリの緑地面積を以前の90倍にし、パリの表情を美しくかつ機能的に変え近代都市「花のパリ」となった。建造物の修復・建設に関して一般住宅では、古びた住居を撤去し更地にしてから、新しい6,7階建てを基準とする集合住宅(市街区では1階が商店で2階以上は住居が基本)が建てられ、現在私たちが見る街並みの景観ができあがったのだ。上下水道の整備は、汚物の悪臭に満ちたスラムの都パリの衛生化でもあり、これもまた大改造の一大目的であった。上水はローマ水道の例にならい、下水はパリ全ての道路の下に下水を通した。下水道の建設によりパリの衛生化を画期的に高めることとなった。最後に街灯の増設であるが、これは犯罪の多発する暗い夜の街を明るくするためにガス灯の設置が道路の整備と並行して行われた。これら大改造は政治によって進められた近代化であり、パリはより美しく、衛生的に、安全になったかもしれない。しかし、これまでのパリを懐かしみ、無くなってしまったことに嘆いた人たちがいたのも事実である。新しい素材やデザインが生み出され作られていった中で、全ての人がその機能に喜びを感じ享受したとは言い切れないことが分かる。
次にミッテラン元大統領(1981年から95年まで在任)のパリ大改造計画(グラン・プロジェ)であるが、これは9つの国家大プロジェクトであり、有名なものとしてグラン・ルーヴル(ルーブル美術館にある巨大ガラスピラミッドの建設)、オルセー美術館(元オルセー駅の内部を美術館に改築)、オペラ座(バスティーユに新オペラ座を建築)、新凱旋門(ルーヴル美術館からシャンゼリゼ大通り、
都市・パリに見る地域の変化
夏期休暇中にフランスはパリに数週間だけ滞在した。ありとあらゆる場所に足を運んだが、パリは観光名所として名高い場所のみならず街並みだけを切り取って見ても素晴らしい風景が広がっていた。また、パリには様々な時代に建てられた建築物が点在しており、中に入れずともただ眺めて思考しているだけで退屈することはなかった。
パリはセーヌ川に浮かぶシテ島を中心に、中世以降日ランスの首都としてまたヨーロッパ最大の都市としてこれまで大きな発展を遂げてきた場所である。現在のパリの都市構造は、19世紀のナポレオン3世とセーヌ県知事オスマンによる大改造によってほぼ決定された。都市の骨格となるルーブル宮から凱旋門にいたる中心軸や、上下水道、緑地や広場が整備されたオスマン時代の大改造の他にも、現在まで多数の都市計画が実践され、歴代国王や王室建築家によって蓄積された多くの歴史的記念建造物や、古い街区の改修・保存と近代的な改造計画とが並行して行われてきた。幾度もの改造を経てきたパリには、ローマ期から中世、近現代にわたる全ての時代の建築が存在し、そのような建築が構成する都市に見られる新旧の調和や多...