私は、これまでに死刑制度に賛成であった。なぜなら、殺人などの凶悪な犯罪を犯したら、自分の命をもって償うのは当然だからである。殺された人のこれからの人生を壊したのだし、被害者の家族たちもやりきれない気持ちで犯人を憎んでいると容易に想像つくからだ。
しかし、二〇〇一年に大阪教育大付属池田小学校殺人事件で児童八人を殺害した宅間守死刑囚が、死刑確定からたった一年で執行された。このニュースを聞いたとき、あ然とした。宅間死刑囚は自ら「早く死刑にして欲しい」と裁判所に申し込んでおり、被害者の遺族たちに対しては反省や謝罪の態度が見られない様子だったからである。これでは、罪を償うことにつながらないのではないだろうか。私は、そのときから「死刑制度は何のために存在しているのか?」と死刑制度の存在価値を問うようになった。
なぜ死刑制度が存在しているのか。その主な理由としては、人を殺したからその罪を償うのは当然、凶悪な犯罪の抑止力となっている、犯罪被害者の感情から必要である、国民世論の過半数が支持している、法律によって定められている、などの理由が考えられる。しかし、はたしてその数々の理由は決定的な根拠があるのか。
第一に、「人を殺したからその罪を償うのは当然」という点について考える。この言葉は、死刑を議論するときによく聞かれる。人間の感情としては止むを得ない感情であろう。しかし、人の感情で死刑を決定することはできない。それは復讐となり、加害者と同じ行いを繰り返すことを意味するからだ。また、大勢の人たちが毎年、殺人罪で有罪になっているが、その中で死刑になる人はごく僅かである。しかも現代においては、殺人とはいっても可能な限り死刑判決を避ける努力がなされており、死刑を言い渡された人にも他の刑罰の選択の可能性がある。どうしても死刑でなくてはならないということではないのである。実は日本では人を殺さなくても死刑にできる法律がある。刑法では八種の罪名に死刑を適用することになっているが、そのうちの内乱罪、現住建造物等放火罪、爆発物使用罪等は人を殺さなくても死刑にできる。つまり、日本の法が死刑に値すると定めた罪名だけが死刑になり、その基準は国の判断に任されている。逆に交通事故で人を殺してしまった場合、せいぜい有期懲役であって死刑にはならない。すなわち、「人を殺したから死刑」という定義に当てはまらないのである。
第二に、世論調査、改正刑法草案で死刑は凶悪な犯罪の増加に抑止力があると言われている。本当にそうなのだろうか。現在にいたって、抑止力があるとする科学的証明はなされていない。実際に、今までに死刑を廃止したヨーロッパ諸国やアメリカの州において、死刑廃止後に殺人率が増加したという報告はない。むしろ死刑存置州の方が、殺人率が高いという結果が出ている。このような調査から死刑の存在は犯罪増加に無関係であることが分かる。
東京拘置所で医務官として多くの死刑囚と接触した作家の加賀乙彦氏は、一四五名の殺人犯に、犯行前あるいは犯行中に自分の殺人が死刑になると考えたかどうかを質問した。その結果、犯罪前に死刑を念頭に浮かべたものは一人もいなかった。犯行中に四名が死刑のことを思い、犯行後に自分の犯行が死刑になると思ったものが二九名いたという。死刑に犯罪抑止力はなく、むしろ逃走を助走しただけであったと述べている。(加賀乙彦『死刑囚の記録』二百三十二頁)
つまり、人間は人を殺さないだけなのであり、人を殺せないのではない。政治的な確信犯は別として、死刑有無にかかわらず理性が憎しみから相手を殺したいという感情を抑えて
私は、これまでに死刑制度に賛成であった。なぜなら、殺人などの凶悪な犯罪を犯したら、自分の命をもって償うのは当然だからである。殺された人のこれからの人生を壊したのだし、被害者の家族たちもやりきれない気持ちで犯人を憎んでいると容易に想像つくからだ。
しかし、二〇〇一年に大阪教育大付属池田小学校殺人事件で児童八人を殺害した宅間守死刑囚が、死刑確定からたった一年で執行された。このニュースを聞いたとき、あ然とした。宅間死刑囚は自ら「早く死刑にして欲しい」と裁判所に申し込んでおり、被害者の遺族たちに対しては反省や謝罪の態度が見られない様子だったからである。これでは、罪を償うことにつながらないのではないだろうか。私は、そのときから「死刑制度は何のために存在しているのか?」と死刑制度の存在価値を問うようになった。
なぜ死刑制度が存在しているのか。その主な理由としては、人を殺したからその罪を償うのは当然、凶悪な犯罪の抑止力となっている、犯罪被害者の感情から必要である、国民世論の過半数が支持している、法律によって定められている、などの理由が考えられる。しかし、はたしてその数々の理由は決定的な根拠があるの...