日越外交の歴史と現在
第1章
第二次世界大戦以前、大戦中、大戦後の日越関係
①大戦以前の日越関係
ベトナム・・・仏占領(仏領インドシナ)時代
日本・・・日露戦争勝利
フランス植民地主義の圧政に苦しむベトナムの主として中流階級知識人層の間から、日本への期待と呼びかけの声が湧き興った。
東遊運動=フランスからの独立のための人材育成の一環として日本に留学する動き
↓↓
消滅
原因:日露戦争に勝利した日本は先進国の仲間入りをすることに政策の重点を置いたため。
日仏間協約←ベトナム人留学生の活動を抑止
日本への期待に基礎を置く植民地解放運動は挫折しホー・チミンによる民族独立運動が拡大していった
②大戦中の日越関係
日本軍の南部フランス領インドシナ進駐
日仏共同防衛の名目の下に、日本軍の南部フランス領インドシナ進駐及び海、空軍基地の使用を要求。
ベトナムと日本の関係…フランスのヴィシイ政権と日本との関係として処理された
仏印処理(仏領インドシナを日本軍の軍管理下においた実力行使)
フランスからそのまま引き継いだ形の支配
↓↓
日本の植民地支配
影響
・敗戦までの5ヶ月間に起きたベトナムでの問題
北部ベトナムでの深刻な食糧不足により駐留日本軍と現地住民との間で「米争い」が発生し多数の餓死者が生じた→未解決の処理問題(後述)の争点の一つ
・ベトナム側の日本に対する反応
共産主義系のベトナム独立同盟(越盟)運動を勢いづかせ日本敗戦後はベトナム全土へと拡大した。日本は当面第一の敵といわせるようになった。
③大戦後の日越関係
・ベトナム民主共和国とその政府成立
↑ベトナムにおいて日本人に対する報復行為が行われるようなことはなかったが敗戦後、連合国の占領下におかれた日本は外交権を失っていたためベトナム民主共和国とその政府を承認して、両国間関係を正常化する機会を逸した。
第2章
ベトナム戦争期の日越関係
第一次ベトナム戦争から第二次ベトナム戦争に至る間の日越関係
・1951年8月サンフランシスコ会議において ベトナム国側との対日平和条約署名
一方で…
ベトナム民主共和国側…相互に承認せず外交関係も存在しなかった。
原因:冷戦による東西両陣営の対立が厳しくなりつつあり、自由主義陣営の一員である日本が共産主義陣営に支援されたベトナム民主共和国を承認することは政治的に考えられなかったため。
↓↓
国交正常化が遅れる
・賠償交渉
ベトナム国(→ベトナム共和国)に平和条約署名後200億円に上る賠償協定調印。
ベトナム民主共和国については存在自体を無視
理由:ベトナム共和国はベトナム唯一の正当政権と見做したため。
↑↑
ベトナム民主共和国側・・・強く反発し賠償要求の権利を留保することを宣言
↓
「未解決の諸問題」のひとつ
②第二次ベトナム戦争間の日越外交
前提この時期の日本外交=アジアに対して消極的な受身外交+アメリカからの縛り付け
↓↓
受動型外交
第二次ベトナム戦争について態度を明確にしなかった→日本の国益の観点ではアメリカが敗れベトナム共和国が壊滅したことを考えれば結果的には賢明な政策であった。
第3章
日越国交正常化からベトナム統一までの日越関係
1973年9月21日 ベトナム民主共和国との国交正常化(独立宣言から28年後)
日越双方ともなるべく早く外交関係を設立したい意向
理由
・日本側 ベトナム戦争後のベトナム民主共和国の立場の向上から東南アジアでの日本外交の再構築、国益の擁護のため
・ベトナム民主共和国側
1、ベトナ
日越外交の歴史と現在
第1章
第二次世界大戦以前、大戦中、大戦後の日越関係
①大戦以前の日越関係
ベトナム・・・仏占領(仏領インドシナ)時代
日本・・・日露戦争勝利
フランス植民地主義の圧政に苦しむベトナムの主として中流階級知識人層の間から、日本への期待と呼びかけの声が湧き興った。
東遊運動=フランスからの独立のための人材育成の一環として日本に留学する動き
↓↓
消滅
原因:日露戦争に勝利した日本は先進国の仲間入りをすることに政策の重点を置いたため。
日仏間協約←ベトナム人留学生の活動を抑止
日本への期待に基礎を置く植民地解放運動は挫折しホー・チミンによる民族独立運動が拡大していった
②大戦中の日越関係
日本軍の南部フランス領インドシナ進駐
日仏共同防衛の名目の下に、日本軍の南部フランス領インドシナ進駐及び海、空軍基地の使用を要求。
ベトナムと日本の関係…フランスのヴィシイ政権と日本との関係として処理された
仏印処理(仏領インドシナを日本軍の軍管理下においた実力行使)
フランスからそのまま引き継いだ形の支配
↓↓
日本の植民地支配
影響
・敗戦までの5ヶ月間に起きたベトナムでの問題
北...