イギリスの首都ロンドンがある最大の島を大ブリテン島Great Britainと呼ぶ。このブリテンという呼は、古代にこの島に住んでいたケルト系の先住民であるブリトン人Britonに由する。遊牧系の彼らは紀元前6~4世紀にかけて、大陸から牧草を求めてやってきたと考えられる。BritonあるいはPrytonという語はケルト語で「 をした人の」を意味した。 彼らの名前を元にして、ギリシャ人探家ピュテアスPytheas(前4世紀)がこの島をプレタニケスPretaniquesと呼び、これが地中海世界に知られた最初のイギリスの呼となった。
国際関係研究Ia/Ib
23 Jan 2007
「イギリス」はどう呼ばれたか プレタニケスからイギリス連邦に至るまで
I. 「ブリテン」および「アルビオン」
イギリスの首都ロンドンがある最大の島を大ブリテン島Great Britainと呼ぶ。このブリテンという呼称は、古代にこの島に住んでいたケルト系の先住民であるブリトン人Britonに由来する。遊牧系の彼らは紀元前6~4世紀にかけて、大陸から牧草を求めてやってきたと考えられる。BritonあるいはPrytonという語はケルト語で「 をした人々の国」を意味した。 彼らの名前を元にして、ギリシャ人探検家ピュテアスPytheas(前4世紀)がこの島をプレタニケスPretaniquesと呼び、これが地中海世界に知られた最初のイギリスの呼称となった。
ローマのユリウス・カエサルGaius Julius Caesar(前100-44)はガリアを征服した後、自然とその征服の矛先をイギリスに向けた。彼らローマ人たちはイギリスをブリタンニアBritanniaと呼んだ。カエサルの最初の遠征は失敗し、翌年(前54年)の遠征で何とか朝貢を取り付けたが2回行われただけで放置され、本格的にローマ帝国の支配下に入ったのは、紀元43年にクラウディウス帝が派遣した軍隊によってであった。これによってケルト人のローマ化が進んだ。
現在でもローマの影響のなごりとして英語にはGreat Britainを指すアルビオンAlbion「白い国」という雅語があるが、ローマ人が上陸したイギリス南部の海岸が白亜質で白く見えたため、ラテン語のAlbus(白い)に由来する雅号である(プリニウスに例がある)。
II. 「スコットランド」
ローマの支配は主に南部が中心であったため南部のケルト系のブリト
ン人たちは同化したが、北部のケルト系のスコット人Scotたちはたびた
び南部への進入を繰り返した。ハドリアヌス帝Hadrianus(76-138)は
ニューカッスル・アポン・タインからカーライルまでの118kmに長城を築
き、彼らの侵入を阻もうとした。「大ブリテン島」が二分し、北部にスコット
ランドScotlandというケルト系文化の色濃く残る国が生まれる要因とな
った。この壁は17世紀になるまで、スコットランドとの実質的
な国境であった。
古くこの地域はCaledoniaと呼ばれたようだが(タキトゥス)、その名
称はスコット人の言語であるゲール語のcoille(木)や現在の英語の
holt(木、森)などと関連をもつとされる。なおスコット人Scotという名
前が元来どのような意味だったかについては、Onionsは未だ不明であるとしている。
III. 「イングランド」
4世紀の終わり頃に大移動を始めたゲル
マン民族にローマ帝国は手を焼き、軍隊
を呼び返してしまう。その防備が手薄にな
ったところへ、北方からスコット人たちが
攻め入ってきた。ローマ化したブリトン人
たちは軍隊の庇護に慣れてしまっており、
もはや戦うすべを持っていなかった。そこ
でブリトン人たちは、大陸にいたゲルマン
人に助けを求めた。449年にやってきたの
は、HengestとHosaという二人の酋長に
率いられた強力な軍隊だった。ブリテン島
にやってきたゲルマン民族は、主にアング
ル人Anglesとサクソン人Saxonであっ
た。 Anglesは現在の英語のangle(釣り針)と関係があり、もともと彼らの住んでいたユトランド半島(デンマーク)の付け根の地形に由来する。またSaxonは現在の英語のsaw(のこぎり)やsection(切られること→部分)と関係があり、彼らの当時の武器に由来する。イングランドEnglandの名前は、古英語の時代にアングル人の土地Engla Landと呼び始めたことに由来する。
IV. 「ウェールズ」
ブリテン島は比較的温暖であったため、アングル人とサクソン人はこれを機会に大挙して移住しケルト系のブリトン人たちを追い払い始めた。その結果ブリトン人たちは西のほうへと追いやられた。アングル人とサクソン人たちは、その逃げたブリトン人たちをWēlisc(外国人)と呼んだ。現在のドイツ語でも外国人という意味のWelscheと言う語も残っている。これから転じて、現在のウェールズWalesの起源となった。
ウェールズはケルト系の民族意識が強く独自の歴史を歩んだが、1282年にイングランド王エドワード1世に破れイングランドの支配下に置かれた。しかし、イングランドに対する反乱が相次いだ。エドワードは苦肉の策として、自分の倒したグウィネッズ地方の王グリフィズがウェールズ地方を支配する「ウェールズ大公Prince of Wales」を名乗っていたことに目をつけ、ウェールズ領内で産ませた自分の子を「ウェールズ生まれで英語を話さない」とPrince of Walesの称号をウェールズ諸侯に承認させ安定を図った。以来、代々の英国皇太子がPrince of Walesの称号を与えられる習慣ができたとされている。1536年の合同法によりイングランドと正式合併した。
V. United Kingdomの形成
ゲルマン系のイングランドは、ケルト系のスコットランドと政治的対立を中世の間じゅう続けることになった。しかし16世紀にスコットランド王ジェームズ4世は、イングランド王ヘンリー7世 の娘マーガレットと結婚した(1503年)。同盟関係を結んでいたフランスとの関係の清算と、後嗣にイングランド王位継承権を狙ってのものだった。運よくイングランドの女王エリザベス1世は子供を残さず死に(1603年)、スコットランド王のジェームズ6世がイングランドの王位継承者となるようイングランド側から要請された。これによりスコットランド王とイングランド王の兼任となる。1707年のスコットランド合併法(1707年連合法)により、イングランドとスコットランドは正式に合併しグレートブリテン王国Kingdom of Great Britainとなった。
ケルト系のアイルランドはイングランド王ヘンリー2世による支配以来(1171年)、内乱を繰り返していた。16世紀に国教会を創設しローマ教皇と袂をわかったヘンリー8世はアイルランド平定を目指して侵攻(1536年)、それまでイングランド王の称号であったアイルランド卿に代えて、アイルランド諸侯が認めないにも関わらずアイルランド王を称した。これによりアイルランドのカトリック教徒と、国教徒・プロテスタントとの対立が深まる要因となった。さらに1801年のアイルランド合併法によりグレートブリテン王国はアイルランドを併合し、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国The United Kingdom of Great Britain and Irelandとなった。1922年に北部6州(北アイルランド;アルスター9州の中の6州)を除く26州が、アイルランド自由国として独立したことで、1927年に現在の名称であるグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国The United Kingdom of Great Britain and Northern Irelandへと改名した。
VI. 「太陽の沈まない帝国The empire on which the sun never sets」
もともと「太陽の沈まない帝国」とは、15世紀に世界の覇権を握り植民地化を進めたスペインのカルロス5世(1500-1558)が「わが国土に日は沈まぬ」といったことにはじまる。はじめてイギリス帝国に対して使ったのは19世紀の人々がエリザベス時代のイギリスの覇権を指して使い始めたのが始まりのようである。1851年に政治家Lord Salisburyは、イギリス本国が植民地の防備に費やした150万ポンドはただ「われらの軍隊を食わせるために余計な仕事を作ることと、われらの帝国の上に日が沈まないという感傷を満たすこと」を可能にしたに過ぎないと不平をもらしたという証言が残る。それに対して「なぜなら神が英国を闇の中にいるのを許し給わなかったからだ」という有名な解答を与えたのは、スリランカの新聞資料によればスリランカの共産主義者Colvin R. de Silva(1907-87)であったらしい。
幕末における江戸幕府との交渉の際には「 」や「 」などと呼称されていた。その後イングランドを表すオランダ語のEngelsch(エンゲルス)またはポルトガル語のInglês(イングレス)が訛り、「エゲレス」または「イギリス」という読みと「英吉利」という当て字が用いられるようになったらしい。覇権国家としての意味が強調された「大英帝国」という日本独自の表現は、地理学的な名称であるGreat Britainと歴史学的な言葉であるthe British Empireが一緒になって生まれた。しかし、現在の日本の歴史研究では「イギリス帝国」という表現が用いられることが多くなって来ており、文学的側面を重視するなど、特に意図した場合を除いて「大英帝国」とは呼ばれなくなってきている。
VII. イギリス連邦
第一次世界大戦を経過し、イギリスの植民地・自治領は自分たちの発言権の強化を求めてきた。そこで支配権を何とか確保しようと英国議会は「ウェストミンスター憲章Statute of Westminster」を採択した(1931年)。この憲章により「英国本国と海外の自治領は王冠への忠誠で団結した平等な共同体」と規定されことになった。最初はグレート...