トランスジェンダーと性同一性障害

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    トランスジェンダーと性同一性障害
     近年、「トランスジェンダー」と「性同一性障害」という言葉が使われるにあたって、混乱が激しくなっているように思う。前者は社会学的な用語で、後者は医学的な用語であるが、この二つの用語は、時にはほぼ同一の意味で用いられ、時には異なった意味で用いられる。  例えば、「トランスジェンダー」の語に、ホルモン療法などの医療行為を受ける人、という意味をもたせることが通例になる一方、逆に医学的な診断を受けず、医学的な処置を望まない者が「性同一性障害」を名乗ることの是非が論じられたりする。
     では、なぜこのような混乱が生じたのか。  一つに、近年において「トランスジェンダー」よりも「性同一性障害」が用いられることが多くなり、本来「トランスジェンダー」というべきところを「性同一性障害」ということによるように思える。とりわけ1996年の埼玉医科大学による、「合法的な」性同一性障害治療の解禁以来のことであろうが、性別の越境という社会的事象について、近年は医学的な関心からの理解が、社会学的な意味での理解を上回っている。  しかし、性別の越境は、性同一性障害によるものに限られない。また、性同一性障害をもつ者が、医学的な意味でなく、社会的に性別の越境を試みる場合、これは医学とは別次元の行動である。  もっとも、医学はそれ自体独立した存在ではなく、社会的な存在である。つまり、医学は絶えず社会によって意味づけられ、逆に社会現象を意味づける。  そんなわけで、本文ではこの二つの用語の関係を再検討してみようと思うが、ここでは必然的に、医学と社会の関係を問わざるを得ない。すなわち、医学と社会の関係を整理することが、この二つの用語の用法の混乱を収束させる手がかりとなる。 *   *   *  「トランスジェンダー」(transgender, transgendered,TG)という用語を初めて耳にした方でなければ、この語が広義と狭義の二つの意味を持ち合わせていることはご存じかと思う。  一般的な理解で言えば、広義の「トランスジェンダー」とは、社会学的に見て、広く性別の越境を試みる者、を意味する。いわゆるTV(transvestite,異性の服装を身につける者)、TS(transsexual,性同一性障害をもつ者で、身体的性別の改変を望む者)、狭義のTG(後述)を包含する。その動機は、後述の「性同一性障害」によるものでなくとも、同性愛やフェティシズムによるものを含むほか、メンズ・ウィメンズリブなど思想的な動機によるもの、文化的背景に基づくものをも含みうる。  一方、狭義の「トランスジェンダー」とは、性同一性障害を持つ者のうち、性別適合手術(sexual reassignment surgery,俗に性転換手術と称される)を望まない者をいう。  そして、「性同一性障害」(gender identity disorder)とは、医学的にみて、外性器や染色体などから判断される身体的性別(sex)と、性自認(gender identity)すなわち自分が男女どちらの性別に属するかという認識に、不一致がある状態をいう。  ここで前提として、「トランスジェンダー」「性同一性障害」の各々の用語が、日本において使われてきた文脈を簡単に見てみる。  私の知る限りで、「トランスジェンダー」の語が日本で最初に使われたのは、渡辺恒夫『トランス・ジェンダーの文化』(1987)である。もっとも、この著作は漫画など文化的な性別越境を広く扱っていて、今日に言う「トランスジェンダー」とは、

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    トランスジェンダーと性同一性障害
     近年、「トランスジェンダー」と「性同一性障害」という言葉が使われるにあたって、混乱が激しくなっているように思う。前者は社会学的な用語で、後者は医学的な用語であるが、この二つの用語は、時にはほぼ同一の意味で用いられ、時には異なった意味で用いられる。  例えば、「トランスジェンダー」の語に、ホルモン療法などの医療行為を受ける人、という意味をもたせることが通例になる一方、逆に医学的な診断を受けず、医学的な処置を望まない者が「性同一性障害」を名乗ることの是非が論じられたりする。
     では、なぜこのような混乱が生じたのか。  一つに、近年において「トランスジェンダー」よりも「性同一性障害」が用いられることが多くなり、本来「トランスジェンダー」というべきところを「性同一性障害」ということによるように思える。とりわけ1996年の埼玉医科大学による、「合法的な」性同一性障害治療の解禁以来のことであろうが、性別の越境という社会的事象について、近年は医学的な関心からの理解が、社会学的な意味での理解を上回っている。  しかし、性別の越境は、性同一性障害によるものに限られない。また、性同一性障害をもつ者が、医学的な意味でなく、社会的に性別の越境を試みる場合、これは医学とは別次元の行動である。  もっとも、医学はそれ自体独立した存在ではなく、社会的な存在である。つまり、医学は絶えず社会によって意味づけられ、逆に社会現象を意味づける。  そんなわけで、本文ではこの二つの用語の関係を再検討してみようと思うが、ここでは必然的に、医学と社会の関係を問わざるを得ない。すなわち、医学と社会の関係を整理することが、この二つの用語の用法の混乱を収束させる手がかりとなる。 *   *   *  「トランスジェンダー」(transgender, transgendered,TG)という用語を初めて耳にした方でなければ、この語が広義と狭義の二つの意味を持ち合わせていることはご存じかと思う。  一般的な理解で言えば、広義の「トランスジェンダー」とは、社会学的に見て、広く性別の越境を試みる者、を意味する。いわゆるTV(transvestite,異性の服装を身につける者)、TS(transsexual,性同一性障害をもつ者で、身体的性別の改変を望む者)、狭義のTG(後述)を包含する。その動機は、後述の「性同一性障害」によるものでなくとも、同性愛やフェティシズムによるものを含むほか、メンズ・ウィメンズリブなど思想的な動機によるもの、文化的背景に基づくものをも含みうる。  一方、狭義の「トランスジェンダー」とは、性同一性障害を持つ者のうち、性別適合手術(sexual reassignment surgery,俗に性転換手術と称される)を望まない者をいう。  そして、「性同一性障害」(gender identity disorder)とは、医学的にみて、外性器や染色体などから判断される身体的性別(sex)と、性自認(gender identity)すなわち自分が男女どちらの性別に属するかという認識に、不一致がある状態をいう。  ここで前提として、「トランスジェンダー」「性同一性障害」の各々の用語が、日本において使われてきた文脈を簡単に見てみる。  私の知る限りで、「トランスジェンダー」の語が日本で最初に使われたのは、渡辺恒夫『トランス・ジェンダーの文化』(1987)である。もっとも、この著作は漫画など文化的な性別越境を広く扱っていて、今日に言う「トランスジェンダー」とは、広義のそれと照らし合わせても、意味のずれが生じる。  一方、『男でもなく女でもなく』を1993年に著した蔦森樹は、当時より現在に至るまで、「トランスジェンダー」を名乗る。同書において、蔦森氏は、社会学的なジェンダーフリー若しくはメンズリブの観点から、男性から女性への社会的な性別越境を論じている一方、医学的な処置の是非については論じていない。  このように、日本においては、一部のアカデミックな層の中に限られていたものの、医学的な「性同一性障害」より、社会文化的な「トランスジェンダー」としての理解が先行していたことになる。  そして、実質的には医学的な、性同一性障害の問題を扱っている松尾寿子『トランスジェンダリズム・性別の彼岸』(1996,初出は1994)も、その表題は「トランスジェンダー」の派生語が冠されている。  しかし、1996年以降、事情は変化する。この年に埼玉医大の判断に関して行われた報道には「性同一性障害」の語が踊る一方、「トランスジェンダー」の語は、広義・狭義双方の意味についても一般化しない。  そして、当事者のコミュニティにおいても、「トランスジェンダー」の語について、性同一性障害という医学的理解を前提として、その中で性別適合手術を希望しない者を意味する、狭義の「トランスジェンダー」としての用法が主流になる。  ここで、2000年に刊行された吉永みち子の著作の表題は『性同一性障害』であり、著作を刊行した時点で医学的な治療を受けていない佐倉智美も、『性同一性障害はオモシロイ』と題する著作を著している。  このように、少なくともメディアに露出する用語という点については、1996年以降、「トランスジェンダー」から「性同一性障害」への転換があったことを否定できない。  さらには、これ以降、性別の越境に対して、「性同一性障害」という病気をもつ特異な人が行う行為、としての認識が、社会的に定着していくことになる。加えて言えば、性転換手術をきっかけにしていたため、ここでできた「性同一性障害」のイメージは、TSのそれであり、TVや狭義のTGのそれではない。 (なお、それ以前に社会学的な「トランスジェンダー」としての認識が定着していたかというと、私もこの点を肯定するものではない。「ニューハーフ」のような風俗的な理解か、せいぜい文化・芸術上の理解があったにとどまる。)  このように、性同一性障害が医学の対象として社会的に認知されるに従い、当事者の中には、性同一性障害の抱える社会的問題(例えば戸籍など公的書類の性別の問題)についても、もはや社会学的なジェンダーの問題ではなく、あくまで医学的処置の延長の問題として捉える向きも出てくることになる。 *   *   *  このような、「トランスジェンダー」から「性同一性障害」への、社会的関心の移行を、どのように解読すべきか。  もっとも、ここで医学によるジェンダー論的、社会学的問題の簒奪、という単純化された図式を提示することは、軽薄に過ぎよう。もちろんそのような問題が存在しないわけではないが、このような単純な図式化は、かえって物事の本質を見えにくくする。  さらには、多様な性、という概念を前提とする「トランスジェンダー」から、二元的な性を前提とする「性同一性障害」医療への変化、という図式化についても、私は警戒すべきものと考える。なぜなら、多様な性、という概念そのものが、インターセックスなども含めて多様な臨床例を提示してきた、医学的知識に立脚するものであり、このような形の医学批判は明らかに自己矛盾であるからである。そして、性同一性障害をもつ者の内、医療的処置を必要としている者が存在する以上、その医療措置はできるだけ円滑に行われるべきであるし、このことに異論を挟む余地はない。  むしろなすべきことは、医学が既に性の多様性を認識し、多様な解決法の提案が可能であるのにもかかわらず、医学の側がジェンダー(社会的に意味づけられる性別)に関する問題意識を遠ざけ、固定的な性別観に立脚した医療措置しか認めない原因を認識することである。  すなわち、医学の側が男性女性という二項対立的で、かつその間の移行を認めない固定的な性別観に追従した一方、社会の側が医学の提示する基準であれば正しいと、無条件に信頼したことが、「トランスジェンダー」から「性同一性障害」への移行をもたらしたといえる。  この点、性同一性障害治療につき、典型的な「中核群TS」を中心に開始されたのは、もちろん当該時点においてやむを得ない面もあった。このような現実的な妥協が、今日の性同一性障害治療の途を開いたことを、否定すべきではない。  しかし、これは最終的な状態ではなく、あくまで過渡的な状態であることを認識すべきである。  まず、医学に要求されるのは以下の点である。第一に、現在の医学的知見から得られた、身体的、心理的両面に亘る、性の多様性について、医学界だけでなく一般社会に対して、情報を開示し理解を進めることである。この点、一部に性同一性障害の診断基準を狭めようと要求する当事者の動きがあるが、これに対し医学の側は、臨床例の蓄積に立脚した理知的な態度をもって臨むことが望まれる。  一方、当事者やその支援者、ジャーナリズムに必要なことは何か。この点、「性同一性障害」という用語が人口に膾炙したことをよいことに、広く性別の越境についてこの語を用いる者もいる。しかし、医療固有の問題以外にこの語を用いることには、慎重でなければならない。むしろ、医療固有の問題であるか、医療に関する社会的問題であるか、社会的性別の問題であるかを絶えず意識することが望まれる。    以上より、最初に戻って「トランスジェンダー」と「性同一性障害」の語はどう使い分けられるべきかは明らかであろう。  社会文化的意味での性別の越境(単純な女性から男性へ、男性から女性へに限らない)と社会制度の問題に関しては、「トランスジェンダー」の問題として捉えられるべきであると考える。  ...

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