1-13シュレーディンガーの猫

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    シュレーディンガーの猫
    なぜ観測が意志と関係あるというのか?
    観測とは何だろう
     量子力学によれば、測定値は確率によって決まるのだと言う。 この考えに何か不都合があるだろうか。 慣れてしまえば大して奇妙でもない。
     測定するまでは幾つかの可能性が同時に存在していて、測定をした瞬間に状態がその中の唯一つに固定するというわけだ。 観測するという行為が状態を定めると言ってもよい。
     状態は測定する以前から定まっているのだが観測するまで知りようがない、というのとは根本的に違う。 確率でしか分からないというのは我々の無知によるのではない。
     その事実は2重スリットの実験にも現れている。 異なる可能性を表す確率の波はお互いに干渉して、確かに測定結果に影響を与えているのである。 観測されるまでは、あらゆる可能性は実在していたかのようだ。
     では観測とは一体何だろう。 観測という行為の一体何が、測定結果を唯一つに定めるのだろう。
     何かを知るためには対象に触れなくてはならない。 「触れる」とは何だろうか。 ミクロの世界では全てのものが小さいために、普通に経験しているような「触る」という行為ができない。 我々の指先でさえ、細かい粒で出来ている。 その粒の一つが対象にぶつかり、跳ね返ったものを別の粒が受け止めて、それを繰り返して力が伝わって行く。
     結局、観測とは、対象に何かをぶつけて、跳ね返ってきたものを分析することで対象を知るという事らしい。 何らかの方法で対象に働きかけなくては、それを知ることは出来ない。
     ものをぶつけるだなんて乱暴なことをしなくても、ただありのままを「見る」だけでも観測はできると思うのが日常の感覚だ。 しかし見るためには光が必要だ。 「見る」という行為は、対象にぶつかって跳ね返ってくる光を調べているのである。 対象から何も飛んでこなければ見ることすら出来ない。
     「触れ」もせず、「見」もせず、ただ静かに目を閉じて瞑想していれば、やがて対象を全身で「感じる」かも知れない。 そんな感覚があると信じている人は意外に多いものだ。 相手から何も発せられないのにどうやって感じるのだろう。 何を感じたというのだろう。 私もそんな能力が欲しいが、論理的には受け入れ難い。 
     物理学者は瞑想する以外の方法で、対象の在りのままの姿を把握することができる。 対象が持つありとあらゆる可能性こそ、対象の在りのままの姿だ。 そこまではシュレーディンガー方程式で解ける。 分からない問題は、対象に触れてしまった時、何が状態を収縮させるのか、という点だ。
    意志が関係するのか
     状態が定まるのは、ものをぶつけた瞬間だろうか? そうではない。 ぶつけたものが跳ね返ってくるのを観測するまでは、その跳ね返って来たものさえ量子力学の観測対象である。 それが対象にぶつかったのか、ぶつからなかったのか? どんなぶつかり方をしたのか? 対象についてのどんな情報を持ってたどり着くのかさえ、確率としてしか分からないのである。
     今度はそれを「観測」しなくてはならない。 そのようにして、状態は確定しないまま、他の粒子へ、他の粒子へと連鎖し、引き継がれる。
     すると状態は一体どの時点で定まるというのだろうか。 光が目の中に飛び込んだ時点だろうか? 飛び込まなかった可能性もある。 光が視覚細胞を刺激した時点だろうか? 同じ光が的外れの方向へ向かっている可能性もある。 その信号が神経に伝わった時点だろうか? それも確率の一つでしかない。
     こう考えていくとやがては、我々が「観測

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    シュレーディンガーの猫
    なぜ観測が意志と関係あるというのか?
    観測とは何だろう
     量子力学によれば、測定値は確率によって決まるのだと言う。 この考えに何か不都合があるだろうか。 慣れてしまえば大して奇妙でもない。
     測定するまでは幾つかの可能性が同時に存在していて、測定をした瞬間に状態がその中の唯一つに固定するというわけだ。 観測するという行為が状態を定めると言ってもよい。
     状態は測定する以前から定まっているのだが観測するまで知りようがない、というのとは根本的に違う。 確率でしか分からないというのは我々の無知によるのではない。
     その事実は2重スリットの実験にも現れている。 異なる可能性を表す確率の波はお互いに干渉して、確かに測定結果に影響を与えているのである。 観測されるまでは、あらゆる可能性は実在していたかのようだ。
     では観測とは一体何だろう。 観測という行為の一体何が、測定結果を唯一つに定めるのだろう。
     何かを知るためには対象に触れなくてはならない。 「触れる」とは何だろうか。 ミクロの世界では全てのものが小さいために、普通に経験しているような「触る」という行為ができない。 我々の指先でさえ、細かい粒で出来ている。 その粒の一つが対象にぶつかり、跳ね返ったものを別の粒が受け止めて、それを繰り返して力が伝わって行く。
     結局、観測とは、対象に何かをぶつけて、跳ね返ってきたものを分析することで対象を知るという事らしい。 何らかの方法で対象に働きかけなくては、それを知ることは出来ない。
     ものをぶつけるだなんて乱暴なことをしなくても、ただありのままを「見る」だけでも観測はできると思うのが日常の感覚だ。 しかし見るためには光が必要だ。 「見る」という行為は、対象にぶつかって跳ね返ってくる光を調べているのである。 対象から何も飛んでこなければ見ることすら出来ない。
     「触れ」もせず、「見」もせず、ただ静かに目を閉じて瞑想していれば、やがて対象を全身で「感じる」かも知れない。 そんな感覚があると信じている人は意外に多いものだ。 相手から何も発せられないのにどうやって感じるのだろう。 何を感じたというのだろう。 私もそんな能力が欲しいが、論理的には受け入れ難い。 
     物理学者は瞑想する以外の方法で、対象の在りのままの姿を把握することができる。 対象が持つありとあらゆる可能性こそ、対象の在りのままの姿だ。 そこまではシュレーディンガー方程式で解ける。 分からない問題は、対象に触れてしまった時、何が状態を収縮させるのか、という点だ。
    意志が関係するのか
     状態が定まるのは、ものをぶつけた瞬間だろうか? そうではない。 ぶつけたものが跳ね返ってくるのを観測するまでは、その跳ね返って来たものさえ量子力学の観測対象である。 それが対象にぶつかったのか、ぶつからなかったのか? どんなぶつかり方をしたのか? 対象についてのどんな情報を持ってたどり着くのかさえ、確率としてしか分からないのである。
     今度はそれを「観測」しなくてはならない。 そのようにして、状態は確定しないまま、他の粒子へ、他の粒子へと連鎖し、引き継がれる。
     すると状態は一体どの時点で定まるというのだろうか。 光が目の中に飛び込んだ時点だろうか? 飛び込まなかった可能性もある。 光が視覚細胞を刺激した時点だろうか? 同じ光が的外れの方向へ向かっている可能性もある。 その信号が神経に伝わった時点だろうか? それも確率の一つでしかない。
     こう考えていくとやがては、我々が「観測した」と意識する瞬間にまでたどりつく。 この時までには確かに状態は唯一つに定まっている。 一体いつ状態が確定したのだろうか。 観測者が意識したその時初めて状態が唯一つに定まるとでも言うのだろうか。 対象を対象として認識する「意志」の存在が、状態を確定させるとでも?
     余りに馬鹿げている。 アインシュタインは次のように言って、量子力学への不満を露にした。  「月は人が見ている時にだけ存在するのだろうか」
     アインシュタインのことを「量子力学を受け入れることが出来なかった頑固者」だと評する人々は、量子力学を心の底から受け入れているのだろうか。 それともアインシュタインほど考えもせずに、受け入れた気になっているだけだろうか。
     我々の日常の常識では、観測しようとしまいと状態は定まっているはずだ。 日常の世界と量子力学のミクロの世界の間の、一体どのレベルで、このような差が生じているのだろう。
    シュレーディンガーの猫
     シュレーディンガーは、量子力学の考えがどれほど荒唐無稽であるかを訴えるため、量子力学的な状態がそのままマクロの状態に反映されるような喩えを持ち出した。
     次のような実験装置を作ることを考える。 用意するものは、中の見えない密閉できる箱と、ラジウムなどの放射性物質と、放射線の検出装置と、リレー装置とハンマーと、青酸カリ。 もし検出装置がラジウムから出る放射線を検知したらリレーに電流が流れ、ハンマーが青酸カリの入ったビンを叩き割るような仕組みを作り、これらを全て箱の中にセットする。 ラジウムの量を調整すれば、一時間以内に検出器が作動する確率を半々にしておくことが出来る。
     そして最後に、この箱の中に猫を入れて、蓋を閉じて密閉する。
     これから一時間の間に検出器が放射線を検知するかどうかは全くの確率で決まる。 もし検知すれば猛毒のビンは割れ、中の猫は死ぬだろう。 検知しなければ猫の命に何の問題もない。 この喩えを「シュレーディンガーの猫」と呼ぶ。
     さあ、一時間後、中の猫はどうなっているだろうか。 生きているか死んでいるか、二つに一つだ。 どちらかしかない。
     しかし量子力学では、観測するまで分からないというのだ。 「生きている猫と死んでいる猫の2つの可能性が重なって存在している」のであり、それは、箱を開けて観測した瞬間に決定するというのだ。
     いや、そうじゃないだろう。 箱を開ける前にすでにどちらかに決まっているはずだ。
     「さあ皆さん、どうか気付いて考え直して下さい。 量子力学を今のまま受け入れるあなた方はこんなにも馬鹿げた話を信じているのです。」  シュレーディンガーはそう言いたかった。
     それに対する最も冷静で論理的な答えは次のようなものである。  「私たちはそのような考えをすることが正しいか間違っているかを確かめる手段を持たないし、そのような考え方をしたところで、実際、何の矛盾も起こらない。」
     こうして量子力学の考え方の愚かしさを示すために考案された実験装置が、今では量子力学の考え方がどのようなものであるかを堂々と人々に宣伝するための道具として使われてしまっている。
     シュレーディンガーは論争に疲れ、「物理なんかやるんじゃなかった」と言って生物学へ転向した。 それで彼は生物学でも活躍するのだから大したものだ。
     最後に注意しておくが、物理学者はこのような馬鹿げた装置を実際に作るつもりはないし、この装置を使って、何か新しいことが発見できるとも考えてはいない。 これは単なる思考実験であって、実際に猫を殺すようなことはしていないので誤解のないようにして欲しい。
    資料提供先→  http://homepage2.nifty.com/eman/quantum/cat.html

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