「漢文の訓読」の要約
漢文とは漢字で表現された中国語の文章である。書き手は中国人ばかりでなく、日本人、朝鮮人、越南人などによっても書かれている。但し、中国語で書かれたものでなければならない。「古事記」「万葉集」「我妻鏡」は漢字ばかりで書かれているが、中国語で書かれていないため漢文ではない。
漢文とは中国語で書かれた文章だけでは不十分である。中国人が読むように、本来の発音または語序によって読む場合ではない。日本語に訳して読む場合のことである。且つその訳し方を「訓読」という方法による場合を「漢文」と呼ぶ。
「論語」の開巻第一の原文である中国語の文章は
「子曰、學而時習之、不亦説乎、」
である。それを日本語に訳して読むと
「子の曰わく、学びて時に之れを習う、亦た説ばしからず乎。」
となる。
「漢文の訓読」の要約
漢文とは漢字で表現された中国語の文章である。書き手は中国人ばかりでなく、日本人、朝鮮人、越南人などによっても書かれている。但し、中国語で書かれたものでなければならない。「古事記」「万葉集」「我妻鏡」は漢字ばかりで書かれているが、中国語で書かれていないため漢文ではない。
漢文とは中国語で書かれた文章だけでは不十分である。中国人が読むように、本来の発音または語序によって読む場合ではない。日本語に訳して読む場合のことである。且つその訳し方を「訓読」という方法による場合を「漢文」と呼ぶ。
「論語」の開巻第一の原文である中国語の文章は
「子曰、學而時習之、不亦説乎、」
である。それを日本語に訳して読むと
「子の曰わく、学びて時に之れを習う、亦た説ばしからず乎。」
となる。
「漢文」とは、中国文をもとの形のままに読むことではない。唐の杜甫の絶句、すなわち四行詩の原文は
「江碧鳥逾白
山青花欲然
今春看又過
何日是帰年」
これを訓読すると
「江は碧にして鳥は逾いよ白く
山は青くして花は然えんと欲す
今春 看る又た過ぐ
何の日か是れ帰る年ぞ」
となる。
訓読が原中国文に対...