児童福祉論① 済

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    資料の原本内容

    「わが国の児童福祉の歴史的展開について、
    子どもの権利保障の具現化という視点から論述せよ。」
     
     日本における児童福祉の歴史は、明治時代における救貧施策の一つとして政府は1871年「棄児養育米給与方」を定め、1873年には「三子出産ノ貧困者へ養育料給与方」を制定し、1974年の制定から1932年までの半世紀以上続いた「恤救規則」は13歳以下の極貧孤児に対し、1年につき米7斗を支給するという制度を盛り込んでいた。明治年間、少年保護施設や育児施設が設立され始め、代表的な育児施設は、石井十次による岡山孤児院(1887年)、民間感化院としては留岡幸助による家庭学校(1899年)があり、仏教の福田思想に基づいた施設として福田会育児院(1900年)がある。明治期は政府の法的措置の遅れをよそに、こうした民間の慈善事業が多発したが、1891年の濃尾地震や1896年の三陸津波の災害を機にさらに育児事業が発展した。この時代最も発展したのは少年の感化事業で、1908年の感化法が改正され、各都道府県に感化院設立が義務付けられ沖縄以外の全府に設立された。1918年の米騒動から大正後期にかけては、日本社会事業の成立期で、法規面では1922年は少年法及び矯正院法が成立した。さらに関東大震災を機に託児所。乳児院や孤児院が設立され、昭和に入って1929年には恤旧規制に代わる救済法規の必要性を求め、救護法が制定され(1932年施行)、貧困児童の施設収容も行われ、1933年には14歳未満の児童を対象にした、人身売買、酷使、欠食から守るため「児童虐待防止法」が制定され、同年14歳未満の不良少年を対象にした「少年救護法」も制定され、これにより感化法も廃止される。1937年には貧困母子保護法が制定された。1938年に厚生省が設置され、児童の保健と体力の向上を狙いとする児童保護政策を行うも戦争体制に入る軍事国家の中、児童の尊厳よりも国の人的資源の確保を目的とするものであった。第2次大戦突入後は、一層この政策が強化され軍人遺族、軍人維持の保護に重点が置かれ、障害児の問題は施策外に置かれ、浮浪化する戦争孤児の問題も社会問題となる。1945年第2次大戦が終わり、復員兵や引揚者で人口が増大し第1次ベビーブームを迎える。また、GHQの管理下にあった政府は社会秩序を回復すべく、1945年9月20日、「戦災孤児等保護対策法網」を決定し、戦争孤児、引き上孤児、戦没軍人の孤児等の収容保護を行うが、実際には、強硬な取り扱いで(浮浪児狩り)と称されていた。 1946年新憲法が制定、公布され、新憲法の「すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障」する理念の下、1947年には児童福祉法が公布され、この法律はこれまでの児童政策に流れていた、要保護児童のみの保護から、次の世代の担い手となる前児童の健全な育成を図ろうとする、総合的な法律であった。
    日本における児童福祉とは、日本国憲法、子どもの権利に関する条約、児童福祉法を基調に他の法律や専門領域と連携し、総合的・体系的に推進され、第一条、すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない(すべての児童に対しての人権の尊重をうたっている)、第二条、国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う(児童の福祉を保障するための共通原理であり、すべての児童に関する他の法令の施行に当たっても常に尊重されなければならない)事をうたっている。
    児童福祉の歴史は、産業革命を経て資本主義社会の展開過程で生じた児童・婦人の労働問題と深く関わり、搾取や人身売買からの児童保護活動、母子家庭に対する貧困対策を中心に出発した経緯があり、現代では全ての児童を健全に育成し、権利を保障する援助体系として推進を図るという考え方になっている。
     日本の福祉は伝統的に、親が子の養育に責任を持ち、親側に何か問題が顕在化してから事後処理的に補完的・代替的にサービスを提供し、その意味では、親が責任をもつ、または問題が起これば行政処分という形で子どもの保護を行うという二分法で児童福祉が実施されてきた。
    第1次世界大戦で養育者を失い、食糧や定住地さえも奪われた孤児や浮浪児等の救済問題を重要課題の一つに掲げた国際連盟は1924年「ジュネーブ児童権利宣言」を採択し、第2次世界大戦下におけるナチズム、ファシズムの体制の中、ユダヤ人や子どもの人体実験や大量殺害、強制労働の反省、世界各国に見られた、戦争孤児や浮浪児の惨状の回復、子どもの基本的人権の侵害は大人の世代の責務とされ、1948年に「世界人権宣言」を採択し女性や子どもの人権確立にも大きな力となり、1959年に「児童権利宣言」を採択した。経済開発の差は先進工業国と開発途上国の児童の基本的ニーズの充足度に格差を生じ、(豊かな社会)にあって肥満に苦しむ児童を見る国の傍らに、餓死や伝染病、栄養失調で死亡する児童が大量発生している国があり、児童生存上の危機は南北問題としても大きく注目されている。このバランスを回復しようと国際連合は1979年に国際児童年のキャンペーンに乗り出し、1989年には「児童の権利条約」が満場一致で採択された。子どもの権利条約に盛られた権利は次のように整理できる。①生存する権利(十分な生活水準や栄養を与えられ、必要な医療が受けられるなど生存に必要最低水準の保障)、②発達する権利(必要な情報、休息や遊びの機会、教育・文化的活動を受ける機会の保障)、③自由の権利(思想、宗教などの自由の保障)、④保護される権利(あらゆる種類の搾取や虐待からの保護、さらに障害児ばかりでなく、難民、少数民族・先住民等の弱い立場の子ども達の保護の保障)、⑤参加する権利(子どもが自由な意見に基づく活動、それを通して積極的な役割を果たすことの保障)、である。これらは、1959年の「児童権利宣言」において顕在化しなかった理念であり、抽象的な権利主体としての児童から権利行使のある実質的主体としての児童へと、子ども観を一歩進める契機を有し、子ども時代にその人権保障を図るという事の重要さを意味している。しかしながら、今だ、東南アジアやアフリカ、南米などの発展途上の子供たちは、いろいろな局面で基本的人権が侵されている。また、日本の子供たちを見ても、子どもの権利から考えなければならない問題もある。例えば、親の子供に対する虐待、深刻ないじめ問題、体罰、また、女子中高生による、援助交際などの性的な問題などが挙げられる。このように、日本でも問題をもつ子どもだけに特別注目する「児童保護」という戦前の狭い見方から、基本的人権の考え方に立ち児童問題の事後処理のみならず、すべての児童の権利を予防的に守る健全育成までも含めた「児童福祉」の展開に至った。
    日本においては、1951年に児童憲章が制定されている。この憲章は、日本国憲法の前文と12の条項からなり、児童福祉法のような法的規範でなく、道義的規範である。この児童憲章はアメリカの児童憲章(1930年)に範をとり、ジュネーブ宣言を参照に作成されたもので、単なる模倣ではなく、当時の社会の決意や願望を盛り込んだ独創的な憲章である。この憲章は、永久不滅ではないが、児童福祉の思想は、社会生活の進展の産物で、その時代の社会的背景と深く関わりをもっている。背景が変化すればそれに適した新しい条文が必要とされ、現代の児童憲章が半世紀を過ぎた現在、我が国の社会背景に適応しているのか、又は変革の必要があるのか、変革するならばどの様な内容を盛り込むのか、正に現代の課題であるといえる。
    参考著書
    『社会福祉エッセンス』第2版
    2008年 三浦 文夫 編著
    自由国民社
    『子ども家庭福祉とソーシャルワーク』第3版
    社会福祉基礎シリーズ⑥ 児童福祉論
    2007年 高橋 重宏・山縣 文治・才村 純 編著
    有斐閣
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