本の主題に即して20世紀のナショナリズム・デモクラシー・市民社会をめぐる諸問題について自分なりの視点を交えて論じなさい

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    資料紹介

    資料の原本内容

    「ユダヤ人国家」の限界

    (「ユダヤとイスラエルのあいだ」著;早尾貴紀 青土社)

    はじめに

    ユダヤ教を信仰する者たちがイスラエルの地に故郷を再建しようとする運動(シオニズム)の帰結として、1948年パレスチナにイスラエルという国家が建国された。

    しかし、この建国はパレスチナの先住民であるアラブ人を物理的にも権利的にも迫害し、多くの難民を生むことになった。このような悲劇的な事態を招いたのはイスラエル建国が持つ矛盾、または一般的な国民国家の持つ矛盾が一因となっている。また建国問題を一層深めることになった要因に「国民」という定義づけの恣意性があげられる。「国民」は結局法律で決められるにすぎないという現実に対して、「ユダヤ人」を「国民」と定義する民族的、文化的な複雑さ、および政治的背景がより一層の混乱を生むことになる。

    そして現在は国際的な意向と現地住民たちとの意思がかみ合わず「ユダヤ人国家」も「パレスチナ人国家」もどちらも定義することがでず、混沌とした状況である。
    このイスラエル建国問題を通して、現代の人類のほとんどが当然の如く生活している国民国家とユダヤ教の文化的な特殊性の特徴の間の問題点が浮かび上がってくる。

    そしてこの問題を通して近代の政治単位としてスタンダードとなってしまっている国民国家の限界や次の展望を検討したい。
    イスラエルの矛盾

    1948年にイスラエルが建国される際に独立宣言が読み上げられた。この宣言文のなかにイスラエルの矛盾が端的に表れている。その矛盾とはイスラエルの「特殊性」と「普遍性」である。まず特殊性については、宣言を読み上げた者たちが代表しているのは「ユダヤ人」だけであるということ。さらに宣言のなかでは「エレツ・イスラエルはユダヤ民族の地であり、この地において、その精神的、宗教的、民族的アイデンティティが形成された」「イスラエル国は、ユダヤ人の移民と離散者の集合のために門戸を開放する」とある。これはユダヤ人のみが将来的にもこの国家に参加することができるとしている。

    他方普遍性については、「宗教、人種、性別にかかわりなくすべての住民に、完全な平等を確保する」とあり、実質的にイスラエル国内に居住することになるアラブ住民に対して向けられた文言である。

    これらは明らかに矛盾している。ユダヤ人のみにしか居住の自由を与えず、他方ですべての住民に完全な平等を与えるとしている。この矛盾は現実にイスラエル政府が政策的にアラブ住民を追放しようとしていることで明らかである。

    さらに筆者はイスラエルの独立宣言において先住民であるアラブ人との関係についての言及が極めて消極的な形でたった一度しか出てこないことについて、アメリカ独立宣言においてのインディアンに関する言及との類似を示し、国家の暴力性について指摘している。(本文第一章)
    このようにイスラエル建国にあたり普遍性と特殊性の矛盾をはらんでおり、それがイスラエルによるアラブ人の迫害につながる一因となっている。しかしこの矛盾はイスラエル独特なものではなく他の国民国家にもみられるものである。

    国民国家の両義性

    国民国家は一方で国家の成員をすべて「国民」とみなす普遍性をもちながらも、他方で民族的実体に基づく排他的なナショナリズムも同時に台頭させるという両義性をもちえる。

    このような両義性を持つに至ったのには国民国家原理の成立過程が起因していると考えられる。

    国民国家の成立に際してその外枠となったのは絶対主義体制下の主権国家である。この主権国家は中規模(ポリスより大規模、普遍帝国より小規模)な統一支配国家であった。この主権国家は単一的市場形成の要求から生まれた。

    この主権国家という外枠に具体的内容となったのは人的団体である。この外枠と内容を結びつけたのが近代革命である。この近代的革命は社会契約説をモデルにしたものであったため、絶対主義が手をつけられなかった身分制を完全に終わらせ、特権に代わる普遍的人権を宣言することができた。

    ここでこの人的団体としての近代国家のモデルが、社会契約説という抽象的個人の抽象能力を強調する理論によって用意されたのに対して、近代革命の中で特定の地域を占める特定の人間集団として具体的内容を加えたのはネイションの概念であるとされる。このネイションの概念は、その集団がそれ自体目的価値となりナショナリズムの発生の要因の一つであると考えられる。このメルクマールとしてハンス・コーンの「過去における共通の栄光、現在における共通の利益、未来に対する共通の使命」があげられ、国家が人間生活の現実的要求と感情的要求とを満足させるものとして観念されたことが示されている。

    以上のように国民国家は単一的市場やナショナリズムというネイションの目的から特殊性を大いに含むものでありながら、他方で国家に客観的正当性を与えるため普遍的人権を国家理念として掲げることが往々にありえる。
    限界

    イスラエルという国家をパレスチナに建国するにあたり、シオニストの間で純粋な「ユダヤ人国家」をつくるか、「二民族共存国家」をつくるかが争点となった。結果は二民族共存国家の敗北である。こうして1993年のオスロ合意において「ユダヤ人国家」と「アラブ人国家」の分割・独立が取りきめられるもアラブ人が独立するための経済的な状況は他国の支援なしには維持できないほど困難であり、さらにイスラエルもその国内には2割のアラブ人と「エチオピアユダヤ人」という政治的に集められたが実際にユダヤ人かどうかは定かではない人々をも多く含んでいるのが現状である。

    このようにイスラエル建国問題は国民国家の限界を示す事柄の一つとしてみることができる。

    この問題に対して筆者はシオニストやその他のシオニズム論者に対してある程度の批判を加えているが、p259で敬虔なユダヤ教徒がシオニズムを批判することを重要視しているという点から、ややシオニズムには批判的であるということができる。しかし、あとがきにあるように、むしろ筆者は近代の政治単位としてスタンダードとなってしまっている国民国家に対して批判を加えることを本書の趣旨としており、その上でディアスポラをこれまでのある特定の国家の構成員として生きる「国民」ではない形の生き方としてディアスポラに代表されるようなユダヤ教徒の生き方を肯定的に述べている。

    各章の「おわり」においてユダヤ教文化の純化がシオニズムと相容れないということを語る分が多くみられることから推測される。

    そこで筆者は本書においてイスラエルの建国に対してその前後から様々な論争があったかとを紹介するに留まっているように考える。

    しかし今完全に混沌にあるイスラエルがこのまま国民国家の形成をあぐねいだままではいるとは考えられない。

    その一方で国民国家原理を歴史的に早い時期に成立させたヨーロッパでは国民国家の形成とは別の動きがすでに始まっている。

    それはヨーロッパ連合である。これは国民国家同士の壁をある程度低くし風通しが良くなる。それはつまりその国境という特殊性がある程度解消されることになる。さらにEUの内部において関税主権、農業政策の主権などにつづいて通貨主権もEUに譲渡されてしまったということになる。そしてEUは必ずしも統一化、均一化をはかるだけに限られない。EUのなかでは逆にグローバルスタンダードが強化され、地域的アイデンティティなどのナショナルアイデンティティ以外も強化されるという。さらに環境団体などの国境横断的な中間団体も活発になる。

    このように壁を低くしていくことは国民国家というものの意義は“希釈化”される。そのようなヨーロッパの状況はもしかするとシオニストたちの目指す方向性変容させるかもしれない。これは私的な推測にすぎないが、これまで古代から中世、近代へと政治単位は人々や経済、宗教、民族、環境などの変化にあわせて適切な形態を模索し続けてきた。そして国民国家の限界が見られる現状において、相対的に新しい形の国民国家が政治単位となっていくであろう。

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