律令国家の行政機構の分析

閲覧数2,052
ダウンロード数4
履歴確認

    • ページ数 : 2ページ
    • 会員770円 | 非会員924円

    資料紹介

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    律令の律は刑法典にあたる。これに対し、令は統治組織や租税制度などを定めた、いわゆる行政法に関する法典である。日本の歴史においては、七世紀に律令国家が成立し、この体制が10世紀まで続いたとされている。この時期が律令時代と呼ばれている。律令国家と呼ばれているのは、律令を国家の基本法としていたからである。
    大和朝廷での最大の権力者である蘇我氏の專横ぶりに、大化元年645年、中大兄皇子・中臣鎌足らは、クーデターを起こし、蘇我氏を滅ぼした。乙巳の変と呼ばれている。このクーデターはそればかりでなく、むしろ日本周辺の対外的危機の高まりと、それに対応するための政治改革の必要性が認識されたからではないかと言われている。中国では、長く分裂の時代が続いたが589年に隋が陳を滅ぼして統一を果たした。隋は外征の失敗などから比較的短期間で滅亡したが、それに続いた唐も強大な国家を作り上げ、高句麗を攻めるなど周辺諸国を圧迫する行動をとっていた。白村江の戦い(663年)で唐・新羅の連合軍に、日本が百済に大軍を派遣したものの大敗した。その敗戦から、日本の西国の防備の強化と、政治改革を加速させた。
    律令国家は、公地公民制を...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。