一九一二年十二月、長州出身者である桂太郎が内閣総理大臣になる。藩閥政治と批判され、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが、憲政擁護会を作り、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとして第一次護憲運動を起こした。桂は立憲国民党の過半数を離党することにより党を分裂させ、天皇の詔勅により立憲政友会をとり静めようとした。しかし、翌年二月九日の憲政擁護第三大会に二万人集まり、桂は激化を恐れ辞職した。藩閥政治の行き詰まりを示し、民衆の直接行動が内閣を倒した最初の事例である。
一九一三年二月、薩摩閥・海軍出身の山本権兵衛が立憲政友会と連携し内閣を組閣した。政党内閣を望んだ世論を裏切る結果となり、尾崎行雄は離党し政友会の中心である原敬が内務大臣として入閣した。文官任用令の改正、行財政整理を行い、第二次西園寺内閣が倒れるきっかけとなった軍部大臣現役武官制を改正し、「現役に限る」という規定を削除した。世論は、営業税・織物消費税・通行税の悪税の廃止を求めた。議会で海軍の増強と増税の予算が審議されていた時期に、海軍高官の収賄事件であるシーメンス事件が発覚し、総辞職にまで追い込まれた。
一九一四年、大...