私は文化人類学の講義において、『子供が大人になるということは?』というテーマに最も関心を持った。
なぜ私がこのテーマに関心を持ったかというと、今まで自分が生きてきた中で、同時期に、『まだ子供なのだから』『もう子供じゃないのだから』などと相反する事を言われ、『大人は都合が良すぎる』と感じたことがあり、そのために、中学生から今現在にかけて時として、自分が子供として存在するべきなのか、もしくは大人として存在するべきなのかということを、考えていたことがあったからである。
<大人と子供の境界>
私は文化人類学の講義において、『子供が大人になるということは?』というテーマに最も関心を持った。
なぜ私がこのテーマに関心を持ったかというと、今まで自分が生きてきた中で、同時期に、『まだ子供なのだから』『もう子供じゃないのだから』などと相反する事を言われ、『大人は都合が良すぎる』と感じたことがあり、そのために、中学生から今現在にかけて時として、自分が子供として存在するべきなのか、もしくは大人として存在するべきなのかということを、考えていたことがあったからである。
講義において、子供が大人になる、ということを、時間や空間との関係を交えながら、『通過儀礼』という儀礼に焦点を当て、日本のような、通過儀礼をあまり重要視していない国においては、子供から大人への変化は連続性が必要であるが、通過儀礼をきちんと行う国においては、子供から大人への変化には、断絶がある、ということ等を説明した。
私が異文化だと感じる、大人から子供へ変化するための通過儀礼として、私が以前にあるテレビ番組で見た、未開の地のとある民族を例にとってみる。そこでは、男子はある一定の時期になると隔離され、...