レヴィナスにおける死と時間〜ハイデガーとの対比〜

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    資料紹介

    レヴィナスにおける死と時間の概念について、著書『時間と他者』に沿った形で、ハイデガーと対比しつつ考察するとする。
    レヴィナスの「死」の考え方はどういったものだったか。まず、「主体」についてであるが、レヴィナスは「主体」は自己によって制限・閉塞されているものとしている。つまり、「主体」は「孤独」であると言う。また、認識も労働も「主体」を孤独から解放する要因にはならず、労働が認識の延長線上にある同化作用であるとする。「主体」のこの孤独は、苦痛・苦悩において決定的に現れてくる。というのも、我々が「実存すること 」に巻き込まれて在ることが疑いの余地も無く現れてくるからである。肉体的な苦痛は、そのあらゆる段階において、「実存すること」から離れることは不可能である。苦しみとは、我々が生と実存へと追い詰められてあるという不可能性であるが、同時に、苦しみはそれ自身のうちに、苦しみよりももっと激烈なものが何か生まれるような今にも生まれるかのような予感、未知なるものを含んでいる。その未知なるものを「光」の言葉に言い表すことはできない。その未知なるものをレヴィナスは以下のようにあらわしている。「それは、あたかも、何か苦悩よりもなおいっそう心を引き裂くようなものが産み出されようとしているかのように、苦悩を構成している後退という側面[次元]のまったくの不在にもかかわらず、何らかの出来事のための余地がなお存在するかのように、この上なお何ものかに対して不安を抱かなければならないかのように、我々が苦悩するうちに余すところなくさらけ出されている出来事以上の出来事の前夜にいるかのように、苦悩それ自体のうちに絶頂ともいうべきものを含んでいる」・・【注1】

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    レヴィナスにおける死と時間~ハイデガーとの対比~
    レヴィナスにおける死と時間の概念について、著書『時間と他者』に沿った形で、ハイデガーと対比しつつ考察するとする。
    レヴィナスの「死」の考え方はどういったものだったか。まず、「主体」についてであるが、レヴィナスは「主体」は自己によって制限・閉塞されているものとしている。つまり、「主体」は「孤独」であると言う。また、認識も労働も「主体」を孤独から解放する要因にはならず、労働が認識の延長線上にある同化作用であるとする。「主体」のこの孤独は、苦痛・苦悩において決定的に現れてくる。というのも、我々が「実存すること 」に巻き込まれて在ることが疑いの余地も無く現れてくるからである。肉体的な苦痛は、そのあらゆる段階において、「実存すること」から離れることは不可能である。苦しみとは、我々が生と実存へと追い詰められてあるという不可能性であるが、同時に、苦しみはそれ自身のうちに、苦しみよりももっと激烈なものが何か生まれるような今にも生まれるかのような予感、未知なるものを含んでいる。その未知なるものを「光」の言葉に言い表すことはできない。その未知なるものをレヴ...

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