合理的形而上学の概念の中でも実体と属性、原因と結果、という概念は、近代では世界構成に対してますます大きな意味を手に入れていったが、それは、古代の記述学や比較学が、静的な秩序ではなく、出来事とその法則性を目指す因果説明的な近代自然科学になっていけばいくほど、より一層大きな意味を獲得していった。その場合思考には、何かその間を関係づけるものが必要である。これらの概念〔実体と属性、原因と結果〕はここでは世界の結合物として、究極の分解不可能な、ゆえにもはやそれ以上解消できない、それ自体において明瞭な洞察として現れてくる。その洞察を用いれば、人は世界を構成できるように思われる。こうしてそれを用いて壮大な現実を明白にしようと試みるのである。
とりわけロックは、『人間知性論』(1690年)の中で全く新しい実証的な切り込みを行った。他のものを明証的なものとして前提するこれらの概念が、まず吟味されなければならない。それに着手したのが近代の認識論である。
ロックは、すべての形而上学者がいくら論争しても、一致は見出せないということに気づいた。彼は、人がつねに引き合いにだす究極的に思考必然的なこれらの前提はどことなく疑わしいはずだ、と思った。彼は新しい方法によって、これらの概念を解決しようとし、しかもこれらの概念の認識価値をその発生から判定しようとしたのである。こうして彼はまずその闘いを、生得概念に対する攻撃から始めたのである。こうした概念や原則は、自然人においてと同様子どもにおいては存在しないということを彼は否定的に示そうとした。それら〔概念や原則〕をもっているのは、まずは教化された大人、それどころか、まずは哲学者である。それゆえ、それらは生得的ではなく、経験の過程ではじめて発達するのである。すべての概念は獲得されるのであって生得的ではない。
認識について
合理的形而上学の概念の中でも実体と属性、原因と結果、という概念は、近代では世界構成に対してますます大きな意味を手に入れていったが、それは、古代の記述学や比較学が、静的な秩序ではなく、出来事とその法則性を目指す因果説明的な近代自然科学になっていけばいくほど、より一層大きな意味を獲得していった。その場合思考には、何かその間を関係づけるものが必要である。これらの概念〔実体と属性、原因と結果〕はここでは世界の結合物として、究極の分解不可能な、ゆえにもはやそれ以上解消できない、それ自体において明瞭な洞察として現れてくる。その洞察を用いれば、人は世界を構成できるように思われる。こうしてそれを用いて壮大な現実を明白にしようと試みるのである。
とりわけロックは、『人間知性論』(1690年)の中で全く新しい実証的な切り込みを行った。他のものを明証的なものとして前提するこれらの概念が、まず吟味されなければならない。それに着手したのが近代の認識論である。
ロックは、すべての形而上学者がいくら論争しても、一致は見出せないということに気づいた。彼は、人...