バークリは「存在するとは知覚されることである」とした一方で、心の存在は認めていた。心は知覚されないが、なぜバークリは心の存在を認めたのか。また、バークリは、<私>というものについて、どのように考えていたのか。それらの問いについて述べる。
バークリの思想と〈私〉について
はじめに
バークリは「それらが存在するとは知覚されることである」(『人知原理論』第三節、※1,p179)と述べた。そして、ヒュームは心の存在を認めなかったが、バークリは認めた。
そこで疑問が生まれる。どうして、心は知覚できないはずなのに、存在するといえるのかということだ。
1章では、その問いについてのバークリの考え方を、2章では、バークリが〈私〉についてどう考えているかを見ていく。3章では、それをふまえつつ、私の意見を述べてみたい。
1、なぜ心は存在するといえるのか
まず、「それらが存在するとは知覚されることである」はどういう意味なのかを、考えていきたい。
「それらが存在するとは知覚されることである」を、一ノ瀬正樹の文にならって、「ペルキピ原理」とよぶことにする。ペルキピ原理について、一ノ瀬はこう述べる。「けれども、以上見たかぎりでは、「ペルキピ原理」は実はたいした主張ではない。というのも、それはあくまでも観念の存在について語っている原理であって、もし観念が知覚の対象として、つまり知覚されて存立してくる何かとして規定されるものであるとするなら...