インカ、マヤ、アステカ文明の発達における食文化の関係

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    資料の原本内容

    インカ、マヤ、アステカ。これらの文明が生まれたアンデス及び中米には共通することがある。それは、アンデスも中米もどちらも多くの作物にとっての起源となっていることである。トウモロコシやジャガイモを筆頭に、インゲンマメ、トウガラシ、カボチャ、トマトなどの作物は、いずれもアンデスあるいは中米の地が起源とされている。

    では、数多くの作物の起源となっているアンデスや中米で、高度な文明が発達したことに、どのような関係があるのだろうか。このことについて、アンデスと中米を比較し、主にトウモロコシに焦点を当てて以下を論じる。
    採集から栽培へ

    メキシコに、テワカンと呼ばれる標高1400mの降雨量が乏しく乾燥した盆地がある。ここで1万年強にわたって人が住んでいた遺跡群が発見され、この地域の人たちが狩猟や採集で食糧を得ていた時代から農耕を発達させるまでの食生活が明らかになった。

    まず、アフエレアード期(紀元前10000年~6800年)では、小さな集団を形成し様々な野生植物の種子や果実類を採集し、野生の動物を捕獲して食糧にしていた。

    次に、エル・リエゴ期(紀元前6800年~5000年)になると、トウガラシ、アボカド、カボチャなどの栽培が開始されたが、狩猟と採集がそれぞれ54%、41%を占め、栽培の割合はわずか5%にすぎなかった。

    コシュカトラン期(紀元前5000年~3400年)までくると、多くの栽培植物が出現してくる。しかし、まだ原始的なものであり、生産性も低かった(例えばトウモロコシは穂軸が2.5cm程度の大きさ)。そのため、栽培の重要性は未だ低く、食糧のうち全体の10%程度でしかなかった。

    アベハス期(紀元前3400年~2300年)から、次第に栽培の比重が増え始める。また、定住集落が形成され食糧加工に便利な道具が見られるようになった。

    ブロン期(紀元前2300年~紀元前1500年)、アハルパン期(紀元前1500年~800年)、サンタ・マリア期(紀元前800年~150年)まで下り、紀元前を過ぎたパロ・ブランコ期頃から栽培は食糧の半分以上を占めるようになった。トウモロコシも改良され収穫量の高いものになり、灌漑などの方法も開発されるようになった。以後、さらに七面鳥などの家畜や、ピーナッツやグァバといった新しい作物も加わった。このことから、メキシコと南米の間の交流が盛んになったと予測できる。

    8世紀を過ぎると、栽培は食糧のうち85%を占めるようになり、栽培に依存するようになってきた。しかし、この現象はテワカンだけでなくメキシコ全域で起こったようである。
    トウモロコシ

    メキシコ料理の中で最もポピュラーなものの一つにトルティーヤが挙げられる。そこで、トルティーヤの原材料であり、日本人にとっても馴染みの深いトウモロコシを特に取り上げてみることにした。

    1で、時代が下がるにつれて栽培されていた作物の種類が増加している旨を論じたが、作物の種類の多様化に加えて、食糧の生産に大きく貢献したものがある。それがトウモロコシである。トウモロコシの歴史は1で論じたようにとても長く、しかも現在見られるトウモロコシは改良に改良が重ねられ、数多くの栽培植物の中でも完全に近い程に栽培化されたものであり、生産性もきわめて高い。そのおかげでトウモロコシは中米の広い地域で主食として利用されているのである。さらに、「サイエンス」誌11月14日号に掲載された4400年前のトウモロコシを巡る論争で、当時のトウモロコシは現在のものと、遺伝子的にほとんど同じであり、姿形だけでなく味までもがよく似たものであるということがわかった。

    つまり、現在と同じ様に生産性の高いトウモロコシが、すでに4400年前には作られていたことになる。文明の発達には、安定した食糧の収集が前提となる。その点において、トウモロコシは最も優れた栽培植物であるといえる。
    アンデスと中米

    アンデス高地の主作物はジャガイモなどのイモ類であるが、トウモロコシも古くから重要な作物であった。その為、トウモロコシはアンデス起源とする説もあったが、現在では中米起源であることが確実視されている。トウモロコシは紀元前1800年頃から現ペルーの海岸地帯で出土しているが、そこで本格的な栽培が始まったのは紀元前数世紀頃であるようだ。つまり、最初のうちは海岸地帯などの低地部に栽培が限られていたトウモロコシであったが、品種改良が進み様々な環境に適した品種が生み出されるうちに、やがて山岳地帯でも盛んに栽培されるようになったと考えられる。

    また、アンデスと中米では、トウモロコシの利用方法において大きな違いがある。中米ではトウモロコシは粉にされ、それを円盤状に焼いたパン、トルティーヤが主食になっているが、これはアンデスでは見られないのである。インカ時代の風俗について書いた記録の中でも「アンデスでは何であれ粉を挽くのは、このように手間のかかる難儀な作業だったので、人々は日常的にパンを食べるしかなかった」と記されている。現在でもアンデスではトウモロコシは粒を炒るか、煮て食べるのが普通である。

    さらに、中米とアンデスで最も大きく異なる点は、アンデスではトウモロコシが酒として大量に利用されていることである。この酒は一般に「チチャ」という名前で知られているが、このチチャはインカ帝国の国家宗教の祭典や祖先崇拝の儀礼に欠かせないものだった。その為、インカではトウモロコシがチチャを作る為大量に消費され、この伝統は現在のアンデス高地の先住民社会に受け継がれ続けているのである。
    まとめ

    作物は人間によって野生の植物が栽培化されたものであり、その栽培化は農耕開始の第一歩だったのである。この農耕は定住化の第一歩でもあり、さらに農耕文化の発達が定住の拡大や文明の成立を促したのである。

    食糧の採集から生産への変化は定住化を促進し、手に入れられる食糧の全体量を増加させ、それが人口の増加も可能にした。また、食糧の安定的な生産は余剰時間を増加させ、それが経済や社会、政治、宗教などの様々な活動を可能にし、文明成立のきっかけを与えることになったのである。

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