先ず考えられる一つとしては、そもそも人間というものは必ず二つの心を持っている。脳科学で言うところの大脳新皮質が司る感情や情動を制御するいわゆる理性と、大脳辺縁系が司る本能的・情緒的ないわゆる欲望である。人間の根本は欲望であり、獣の性質と比較して近いものがある。その欲望の周りに、位や社会や世間といった着物をまとい制御して暮らしているだけであり、根本は獣とそう変わりない。しかし李徴はこの位や社会、世間の評価という着物を詩家になる事を絶望してまで着るが、それもボロボロで穴だらけ、そその間から見え隠れする虎についにはなってしまったのだろう。
二つ目に考えられることは、人間は失意の底に触れたとき一番強くなれるものである。それは失うものがないからである。今まで守ってきた自己を同一させる為の他者からの評価が崩れ去ったとき、自分の存在意識を忘れ自分を信じられなくなる。李徴はそうして虎になり、存在価値を見出すために全ての感覚を試そうとする。兎を食って匂いや味、歯ざわりを感知するのである。そこでまた人を食い始める。この行為は先のそれとは少し違う。他を食すことによって自らの肉とし血とするため、いわば吸収なのである。知覚と吸収によって優越感に浸っているのである。
「なぜ李徴は虎になったのか」
先ず考えられる一つとしては、そもそも人間というものは必ず二つの心を持っている。脳科学で言うところの大脳新皮質が司る感情や情動を制御するいわゆる理性と、大脳辺縁系が司る本能的・情緒的ないわゆる欲望である。人間の根本は欲望であり、獣の性質と比較して近いものがある。その欲望の周りに、位や社会や世間といった着物をまとい制御して暮らしているだけであり、根本は獣とそう変わりない。しかし李徴はこの位や社会、世間の評価という着物を詩家になる事を絶望してまで着るが、それもボロボロで穴だらけ、そその間から見え隠れする虎についにはなってしまったのだろう。
二つ目に考えられることは、人間は失意の底に触れたとき一番強くなれるものである。それは失うものがないからである。今まで守ってきた自己を同一させる為の他者からの評価が崩れ去ったとき、自分の存在意識を忘れ自分を信じられなくなる。李徴はそうして虎になり、存在価値を見出すために全ての感覚を試そうとする。兎を食って匂いや味、歯ざわりを感知するのである。そこでまた人を食い始める。この行為は先のそれとは少し違う。他を食すことによって自らの肉と...