今回私は、若者独特のことばと、現代の若者が持っている特徴的な「仲間意識」との関係について考察してみた。現在、情報のグローバル化が進み、海外の、とりわけアメリカの文化が日本に波のように押し寄せている。アメリカ文化に異常な程へりくだっている我々日本人は、英語の習得の必要性を求められていたり(ほとんどの人はブランド的な感覚で)という表面的なことだけでなく、その精神構造も、まるでそれに従わなければならないかのごとく、アメリカの「個人主義」というものに侵されている。その結果生じた若者特有の精神構造が、若者独特のことばを生み出しているのだ。今回は、その個人主義の波にもまれている若者の精神構造を、「ことば」の側面から、その精神構造との関係性を考察する。ところで、誤解して欲しくないので断っておくが、私は別にここでは個人主義の批判をするつもりはないし、若者の言葉が乱れているとかいうことを主張しているわけでもない。
現代の社会では、「個性」という言葉が非常にもてはやされている。都会ではマンションの隣の部屋の人の顔を知らないということも、特に珍しいことではない。最近ではインターネットの普及に伴い、人と会話しなくても、家に1人でいるだけで、様々な情報を得ることができる。まさに「個人」の社会なのだ。しかしその一方で、確実に私たちの精神構造の根底には、何千年も日本人が培ってきた「ムラ社会」の意識、というか我々の「特性」が今でもしっかり残っている。先ほど述べたように、今は「個人」の社会だ。この正反対の性格である、我々の精神文化がぶつかった時に生じた独特の意識は、若者のことば遣いに表れている。
今回私は、若者独特のことばと、現代の若者が持っている特徴的な「仲間意識」との関係について考察してみた。現在、情報のグローバル化が進み、海外の、とりわけアメリカの文化が日本に波のように押し寄せている。アメリカ文化に異常な程へりくだっている我々日本人は、英語の習得の必要性を求められていたり(ほとんどの人はブランド的な感覚で)という表面的なことだけでなく、その精神構造も、まるでそれに従わなければならないかのごとく、アメリカの「個人主義」というものに侵されている。その結果生じた若者特有の精神構造が、若者独特のことばを生み出しているのだ。今回は、その個人主義の波にもまれている若者の精神構造を、「ことば」の側面から、その精神構造との関係性を考察する。ところで、誤解して欲しくないので断っておくが、私は別にここでは個人主義の批判をするつもりはないし、若者の言葉が乱れているとかいうことを主張しているわけでもない。
現代の社会では、「個性」という言葉が非常にもてはやされている。都会ではマンションの隣の部屋の人の顔を知らないということも、特に珍しいことではない。最近ではインターネットの普及に伴い、人と会...