朱子学における「理」

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    資料紹介

    資料の原本内容

    華夷秩序論と中国の民族意識
    朱子学とは「悪を思うものを糾弾すること、そのものが正義である。」という内容から、上記でのべるような朱子学の価値観を生んだ中国人の思考の特性について考察する。
    そもそも中国における朱子学とは、感情を重んじる考え方であるのか、それとも情を封じ、理性を重んじる考え方であるのか。朱子学の格言に「格物致知 性即理」というものがあるが、長い間、私はこれを「物事の理を知り、心を律することが良い」という意味だと捉えてきた。つまり、朱子学とは極めて感情を排した理性を重んじる考え方であると捉えてきた。しかし、講義を聴くにつれ、朱子学のいうところの「理」とは極めて感情的な価値観に支配されているのではないか、という考えに至った。
    朱子学の誕生を紐解くと、儒家で荀子と孟子に分かれた中で、孟子の流れを汲んでいるが、孔子の思想の核心である「仁」と、仁の中枢にある「孝悌」は、極めて感情的な価値観である。人と人との情愛に、思想の核心を置いているのであり、これは儒家が本来、人間の感情というものを非常に大切に扱う思想であったことの表れではないのか。
    そして孟子も、普遍的に人間が備える、心からの善への傾向を「良知、良能」と呼び、尊んだ。それは、本来なら素朴に直感できる自らの善性を、学問を積む過程で忘れ、まるで学問により徳を積んだかのような錯覚に陥ることを、孟子が戒めていることから伺える。
    つまり、朱子学以前の儒家(荀子は除く)とは、人間の心の中にこそ善があり、それは学問によって整理されたり、成長させられるものであることはまだしも、けして学問(つまり理性)により生み出されるものではない、と考えていたのではないか。私には、そのように思えるのである。
    そして、感情により派生したはずの「善」が、朱子によって、(どのような感情をもってしても)けして揺るがすことのできない「理」として再認識され、本来感情的なものでありだからこそ多少の変化や解釈の余地を残していたはずの「善」が、解釈の余地のない強制的に万人に押し付けられる「理」になったのではないか。
    だとすれば朱子の理とは極めて感情的であり、にもかかわらずその理を揺るがすことは感情をもってしてもできないということになる。
    それは、中国人の考え方が、おそらく未来永劫変わらないことを意味するのではないか、そんな風に感じて、少し暗澹とした気持ちになった。
    参考文献
     数研出版編集部[編]『倫理資料集』(数研出版社、2004年)
     

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