奈良坂は、しばしば露が一面に降って時雨のようになり、児手柏も色を変え、また紅葉色になった高山・花山・若草山の三山が鯉の形のようにみえる。春日の里三条通りに、軒の下の松は年を取り、昔宗親という小鍛冶の住んだほとりに、今も細い煙をたててみすぼらしい板屋住まいをしている案内人を尋ねて、一夜を明かした。枕に行灯の光が映り、飛火野の秋風が吹き、ススキが袖を靡かす寂しさも、旅のさだめと思えば我慢もできた。しだいに三笠山に朝日が昇ったので、乾井の水をすくって、目を覚ましてから、朝清めが終わった神社を参詣しようと思い、出かけて行った。櫟や杉がたくさん茂っていて、奥へ奥へと入るにつれて、外とは違ってこの世ではないような絶景である。白い狩衣の袂をひるがえし、烏帽子のかぶりかたもおかしげなたくさんの神官たちの顔つきが、みんな違っているのを見て、世の中の広いことだなぁ、と思った。自分の友人などはいないが懐かしく感じるのは、都と同じ眺めの紅葉の洞があるからであろう。手向山八幡宮で幣をささげて礼拝した。それから後ろにまわると、古歌で知られる八重桜の春で愛されている三月堂・二月堂がある。
近世国文学演習『懐硯』巻三・四(前半)
枕は残るあけぼのの縁
◎語釈
縁語
奈良坂と時雨・柏
露と霧
時雨と雲
奈良坂
奈良市から京都府相楽郡木津町に通じる京街道の坂道。古くは、平城京内裏の北側からの坂道(歌姫越)を言った。古称は、般若坂。
歌枕
「時雨降行奈良坂や」(永代蔵、一の五)
露時雨
露が降りてあたりが湿っていること。また、草木の葉などに露がたくさんたまって、そのしたたるさまが時雨の降るようであること。
児手柏
ヒノキ科の常緑樹で、中国が原産地。わが国には元文年間(1736~419に渡来した。観賞用に栽植される。
縁語
飛火野と春日・鍛冶
三笠山と春日・飛火野
鯉の形せる山
奈良公園より見て右から高山、花山、若草の三山を遠望した形をいう。三つの山の紅葉を鯉の鱗にみたてている。
さら也
いうまでもない。
春日の里三条通り
奈良市の春日大社一帯の称だが、ここでは広く南部、奈良のこと。
「三条通り」は古来奈良の主要な道路。
歌枕 『山・野・里などをよむ。』
宗親
↑右の三条をうけて三条小鍛冶宗近が出てきた。宗親は一条帝の頃の...