樋口一葉は本名をなつといい、明治五年(1872)に生まれた。母の教育方針で小学校こそ中退したものの、名家の子女が多く集う名門歌塾萩の舎に通って和歌、習字、日本文学の古典などを学び、生活に不自由することのなかった少女時代を過ごすが、父と長兄の死により家督を継いでからは生活が困窮して母と妹を養うために女中仕事や内職をしていた。やがて萩の舎の友人三宅花圃が女流作家として世間で認められたのに刺激を受け、原稿料をもらうために職業作家を目指す。しかし途中で金のために小説を書くことに疑問を感じ、額に汗して働くことによって生活費を得ようと遊郭近くの町で荒物屋を開くが、結局はうまくいかなかった。しかしこの時期に最底辺で生きる人々の様々な人間模様や生活に触れた体験が、後の創作に大きな影響と深みを与えたのだといわれている(配布プリント「明治文学全集30 樋口一葉集の<年譜>」より)。
樋口一葉の作品群にはいくつかの共通点がみられ、それらは「貧しさというものを追体験させるような現実味のある描写」「いわゆる教訓的な価値判断の文章を入れず、孝行な人が幸せになるといったことさえも書いていないこと」「多義的で、登場人物のその後についての記述をまったく書かないか最小限に留め、その詳細の想起の余地を読者に残しておく結末」「一音節、一つの助詞の使用にも慎重を期した、独特の強く迫るような文体」という四点にまとめられるという。他には、月光やススキ、米やカステラといったものを登場人物の行く末の暗示や、その場にいない人物の代わりに象徴として場に置く手法も目立っている。名作『にごりえ』の中では、これらの共通点はどういったところに使われているのかということを、話の流れを追いながら論じたい。
明治時代当時、文学に取り上げられることの少なかった庶民女性の生き様を、樋口一葉は実体験に基づいて鮮やかに描写した。当時の女性の職業選択の幅は非常に狭く、家庭に入る他には女工、女中、娼婦の三つのカテゴリーに大別されたのだという。
樋口一葉は本名をなつといい、明治五年(1872)に生まれた。母の教育方針で小学校こそ中退したものの、名家の子女が多く集う名門歌塾萩の舎に通って和歌、習字、日本文学の古典などを学び、生活に不自由することのなかった少女時代を過ごすが、父と長兄の死により家督を継いでからは生活が困窮して母と妹を養うために女中仕事や内職をしていた。やがて萩の舎の友人三宅花圃が女流作家として世間で認められたのに刺激を受け、原稿料をもらうために職業作家を目指す。しかし途中で金のために小説を書くことに疑問を感じ、額に汗して働くことによって生活費を得ようと遊郭近くの町で荒物屋を開くが、結局はうまくいかなかった。しかしこの時期に最底辺で生きる人々の様々な人間模様や生活に触れた体験が、後の創作に大きな影響と深みを与えたのだといわれている(配布プリント「明治文学全集30 樋口一葉集の<年譜>」より...