「ジェンダー・フリーの時代にエロティシズムは可能か」というテーマについて、このレポートでは、バタイユ著『エロティシズム』を中心に、ジェンダー・フリーとエロティシズムについて考えていくが、まず、論に明確さと普遍性を与えるために、ジェンダー・フリーの概念をより極端に、最も徹底した形で規定したいと思う。このレポートの中で「ジェンダー・フリー」と言う場合、加藤秀一著『性現象論-差異とセクシャリティの社会学』の中にあるごとく、性別差異、性別役割を社会通念による産物であるとして、本質的、普遍的な意義の無いものとし、また医学を根拠とした性別そのものも、「有性生殖に重大な意味づけをしている限りにおいて存在する」社会的な規範に過ぎないと捉らえる。
さて、ではエロティシズムについてであるが、バタイユ『エロティシズム』の主軸となる論とは、エロティシズムの本質は、禁止を侵犯するところにあり、エロティシズムを支配しているのは、死と存在の連続性である、というものである。このバタイユの論に寄り掛かってエロティシズムの存在の可否のみを探ることは難
「ジェンダーフリーの時代とエロティシズム」
「ジェンダー・フリーの時代にエロティシズムは可能か」というテーマについて、このレポートでは、バタイユ著『エロティシズム』を中心に、ジェンダー・フリーとエロティシズムについて考えていくが、まず、論に明確さと普遍性を与えるために、ジェンダー・フリーの概念をより極端に、最も徹底した形で規定したいと思う。このレポートの中で「ジェンダー・フリー」と言う場合、加藤秀一著『性現象論-差異とセクシャリティの社会学』の中にあるごとく、性別差異、性別役割を社会通念による産物であるとして、本質的、普遍的な意義の無いものとし、また医学を根拠とした性別そのものも、「有性生殖に重大な意味づけをしている限りにおいて存在する」社会的な規範に過ぎないと捉らえる。
さて、ではエロティシズムについてであるが、バタイユ『エロティシズム』の主軸となる論とは、エロティシズムの本質は、禁止を侵犯するところにあり、エロティシズムを支配しているのは、死と存在の連続性である、というものである。このバタイユの論に寄り掛かってエロティシズムの存在の可否のみを探ることは難...