「痴人の愛」に見る日本の中の西洋

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    資料紹介

     ナオミズムという言葉がある。これは「知性も道徳感情もない妖婦の一典型」※1を表している。しかし、ナオミはただの淫らな悪女ではない。ナオミはこの時代を戦う女性たちの声を代弁しているのだ。
     「痴人の愛」は大正十三年三月に「大阪朝日新聞」に連載され、十一月にその続編を「女性」に連載された。この頃の日本は第一次世界大戦後の最初の世界恐慌を受けて、大きく揺れ動いていた。第一次世界大戦後の日本は世界的な恐慌の余波を受けて、恐慌状態に入るが、さらに関東大震災があり、関東では一時的に経済がストップし、復活してからも深刻な不況から抜け出せずにいた。一方国民は対戦中の好景気よりも生活が華美になり、向上期にあった映画の影響で西洋文化が流入し、モガ・モボなどが現れ始めた。
     その一方で、大正デモクラシーも興隆してきた。このデモクラシーの中で、女性も大いに活躍する。その象徴ともいえるものが1911年九月に創刊された、平野らいてう、伊藤野枝らによる「青鞜」である。「青鞜」はそもそも女流文芸集として出発したが、次第に女性解放の道を探ってゆく雑誌、という性格を帯びるようになってくる。また、創刊号に掲載された「原始女性は太陽であった」で始まるエッセイで、平野らいてうは「女性を含む人間一般の解放の必要性を強調し、男女同権論の陥穿である男性を価値基準に置く視点を強く批判」※2した。それは同時に女性の価値を強く押し出すものになった。また、教育の普及と第一次世界大戦中の経済拡大に伴い、職業婦人が著しく増加した。十九年の統計によれば、全国の職業婦人は約四十三万人、うち髪結い・美容師十万人、教員六万七千人、看護婦三万五千人、産婆三万人、鍼灸按摩二万六千人などが上位を占め、このほか電話交換手・郵便局員・事務員・店員・タイピスト・バス車掌・女医・婦人記者・女性速記者・保険勧誘員・モデル・女優・女給など、職業もバラエティーに富んでおり、数も増加していた。

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     ナオミズムという言葉がある。これは「知性も道徳感情もない妖婦の一典型」※1を表している。しかし、ナオミはただの淫らな悪女ではない。ナオミはこの時代を戦う女性たちの声を代弁しているのだ。
     「痴人の愛」は大正十三年三月に「大阪朝日新聞」に連載され、十一月にその続編を「女性」に連載された。この頃の日本は第一次世界大戦後の最初の世界恐慌を受けて、大きく揺れ動いていた。第一次世界大戦後の日本は世界的な恐慌の余波を受けて、恐慌状態に入るが、さらに関東大震災があり、関東では一時的に経済がストップし、復活してからも深刻な不況から抜け出せずにいた。一方国民は対戦中の好景気よりも生活が華美になり、向上期にあった映画の影響で西洋文化が流入し、モガ・モボなどが現れ始めた。
     その一方で、大正デモクラシーも興隆してきた。このデモクラシーの中で、女性も大いに活躍する。その象徴ともいえるものが1911年九月に創刊された、平野らいてう、伊藤野枝らによる「青鞜」である。「青鞜」はそもそも女流文芸集として出発したが、次第に女性解放の道を探ってゆく雑誌、という性格を帯びるようになってくる。また、創刊号に掲載された「原始...

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