「八足之鹿」と蘇我赤兄

閲覧数2,608
ダウンロード数3
履歴確認

    • ページ数 : 5ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    蘇我赤兄は蘇我馬子の孫にあたる。父は蘇我倉麻呂であり、兄は大化改新に加担したとされる石川麻呂である。
     蘇我氏は馬子の世代以来いくつもの家に分裂していた。大化改新において滅ぼされたのは、蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家のみであり、その他の家や枝分かれした氏族はいずれもその後も政府に重用されていた。
     赤兄についての有名なエピソードは、有間皇子の謀反事件である。赤兄が『日本書紀』に初めて登場する斉明四年十月、彼は斉明天皇の紀温湯行幸に際して留守官に任命された。十一月に赤兄は、孝徳天皇の唯一
    の皇子である有間皇子に斉明天皇の失政を三つ挙げて語った。そして有間皇子と謀反について語り合うが、その夜、赤兄は有間皇子らを謀反を企んだとして一斉に捕らえ、天皇行幸先の紀温湯に送った。有間皇子は十月十一日に藤白坂に於いて処刑された。この時の位は大錦上であった。
     この後赤兄の名が史料に登場するのは、10年後の天智七年二月である。『日本書紀』によると、赤兄の女常陸娘を天智天皇の妃とし、山辺皇女を生ませたとある。有間皇子の謀反事件から次に名が登場するまでに、かなりの時間の差がある。しかし、娘が天智天皇の妃になっていることから、天智朝において、赤兄が重要な存在になっていたように思われる。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    『日本書紀』天智十年
    十年夏四月、是月、筑紫言、八足之鹿生而即死、
     資料に基づいてレポートを書くということで、私は授業で扱っていた大宰府史料から題材をみつけてみた。私がやった箇所ではないのだが、発表の後ほんの少し疑問として残った部分である。この条文に出てくる「八足之鹿」とは一体何をさすのか。そして、授業中ではこの「八足之鹿」とその前の条文で大宰率に任命された蘇我赤兄は関係があるのかという話が出た。今回はこれらの事について調べてみようと思う。
     まずは蘇我赤兄について、彼がどんな人物だったのか経歴をみていきたい。次に「八足之鹿」の意味とその示すところを考え、最後に「八足之鹿」と蘇我赤兄の関係を考えてみたいと思う。
    ○蘇我赤兄
      『日本書紀』天智八年条
      八年春正月庚辰朔戊子、以二蘇我赤兄臣一、拜二筑紫率一。
     蘇我赤兄は蘇我馬子の孫にあたる。父は蘇我倉麻呂であり、兄は大化改新に加担したとされる石川麻呂である。
     蘇我氏は馬子の世代以来いくつもの家に分裂していた。大化改新において滅ぼされたのは、蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家のみであり、その他の家や枝分かれした氏族はいずれもその後も政府に...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。