日清戦争の戦後派世代である与謝野晶子は、現代の若い世代においてもその名を広く知らしめ、とりわけ女性読者からは親しみを抱かれていることは、近年、現代語訳された『みだれ髪』が大きな反響を呼んだことからも認識できる。当時の古い言葉で表現された作品ではあるが、いわゆる『明星風』という実生活の感情を率直に歌い上げる歌風と、当時(明治後期)の人たちにとっては衝撃的なほど近代精神にあふれた革新的な発想の詩歌である故と考えられる。
与謝野晶子(旧姓:鳳晶子)は大阪府堺市の駿河屋という京都大阪一帯に名の知れた菓子屋の三女として生まれた。明治11年12月7日のことである。父・宗七は駿河屋の旦那であり市会議員も長く勤め、漢書や日本の古典にも親しむといった市の名士の一人であったらしい。晶子が幼いときから読書好きだったのはこの父の影響でもあったようだ。また、生来利発で15歳で女学校を終えた彼女はさらに3年間補習科に学んだ。しかし上の姉たちが皆嫁いでしまうと晶子は店番を任され、店の帳場格子のなかで読書に耽っていたという。
日頃から短歌の形式によって自身を表現したいと思っていた晶子は、21歳のときに河野鉄南・宅雁月らが発足した浪華青年文学会の堺支会に入会する。この後、後に夫となる与謝野鉄幹が『明星』を発足させた折に晶子へ作品の掲載を勧誘するのであった。当時はまだ鉄幹には妻・滝野があり、晶子は鉄南に惹かれていたようである。
明治34年、鳳晶子として世に出した唯一の歌集『みだれ髪』が出版される。鉄幹への恋を原動力に歌われた本歌集の、明星派の特質である大胆で情熱的な歌風に、歌壇はもちろん文壇をも熱狂の渦に巻き込んだのである。この直前、晶子は家出同然の鉄幹のもとへ飛び込んでいる。
与謝野晶子とその作品について
日清戦争の戦後派世代である与謝野晶子は、現代の若い世代においてもその名を広く知らしめ、とりわけ女性読者からは親しみを抱かれていることは、近年、現代語訳された『みだれ髪』が大きな反響を呼んだことからも認識できる。当時の古い言葉で表現された作品ではあるが、いわゆる『明星風』という実生活の感情を率直に歌い上げる歌風と、当時(明治後期)の人たちにとっては衝撃的なほど近代精神にあふれた革新的な発想の詩歌である故と考えられる。
与謝野晶子(旧姓:鳳晶子)は大阪府堺市の駿河屋という京都大阪一帯に名の知れた菓子屋の三女として生まれた。明治11年12月7日のことである。父・宗七は駿...