1, はじめに
今回は、Virginia WoolfやJames Joyceなどが使い手として代表的な「意識の流れ」と呼ばれる手法に前々から興味があったので、翻訳というキーワードと合わせて検索した結果、Naomi Matsuoka氏の"Japanese-English Translation and the Stream of Consciousness"に取材することとなった。ここでは「視点交換が頻繁になされる(さまよう語り)日本文学を、意識の流れの手法を用いて翻訳すれば原文の雰囲気が壊れないのではないか」という作者の提案に対する所見を、Woolfの"To the Lighthouse"、樋口一葉『大つごもり』を見ながら述べようと思う。
2, "Japanese-English Translation and the Stream of Consciousness" Woolf・一葉部分概要
日本の小説では著者・語り手・登場人物の視点が一体化したりまた離れたりするが、英米小説にはこれはない。しかしまったく異質なものというわけではなく、このさまよう語りはVirginia WoolfやJames Joyceなど「意識の流れ」と呼ばれる手法の使い手に見られる。わたしはこの「意識の流れ」を、日本小説を英語に訳す際用いれば、原文の雰囲気を損なわず翻訳をすることができるのではないかと思う。樋口一葉の『大つごもり』をまず引用しながら分析してみようと思う。
まず『大つごもり』だが、主人公であるお峯の人物像は、彼女の内的独白や、彼女に向けられた言葉や、彼女の知らないところでなされた彼女についての発言といった細部から形成される。これはWoolfの"To the Lighthouse"において、主人公であるMrs.Ramsayの人物像が彼女の思考と内的独白、それに周囲の人々による観察によって表現されることと一致している。加えて一葉の語りの重要な特徴と言えば、独白と台詞がスムーズに繋がっており、また切れ目なく次々とくり出されることがあげられるが、この特徴はWoolfのそれでもある。また最も重要な両者の類似点は、誰かの発言が会話を導かず、登場人物の思考や語り手を呼ぶことだ。
「意識の流れ」と日本語‐英語間翻訳
1, はじめに
今回は、Virginia WoolfやJames Joyceなどが使い手として代表的な「意識の流れ」と呼ばれる手法に前々から興味があったので、翻訳というキーワードと合わせて検索した結果、Naomi Matsuoka氏の"Japanese-English Translation and the Stream of Consciousness"に取材することとなった。ここでは「視点交換が頻繁になされる(さまよう語り)日本文学を、意識の流れの手法を用いて翻訳すれば原文の雰囲気が壊れないのではないか」という作者の提案に対する所見を、Woolfの"To the Lighthouse"、樋口一葉『大つごもり』を見ながら述べようと思う。
2, "Japanese-English Translation and the Stream of Consciousness" Woolf・一葉部分概要
日本の小説では著者・語り手・登場人物の視点が一体化したりまた離れたりするが、英米小説にはこれはない。しかしまったく異質なものというわけではなく、このさまよ...
1.Naomi Matsuoka(1987)を下敷きにしておられるが、このレポートの著者の意見なのか、Naomi Matsuoka(1987)の引用・要約なのかが曖昧なところが多い。
2.「日本の小説では著者・語り手・登場人物の視点が一体化したりまた離れたりするが、英米小説にはこれはない」としているが、これに関しての説明が必要。視点の定義が曖昧である。著者の視点とはどういったものかが不明。英米小説に関しても語り手と登場人物の視点が一体化する現象は頻繁に見られると思われるが、なぜこれを否定されているのかが曖昧。
3.考察において、「主人公の内面を著者が語る」としているが、著者と語り手の区別がなされていない。また「V.IVと一体化した語り」の意味が不明。
4.日本語と英語の人称の比較の説明がよくわからない。「日本語では「わたし」と訳される部分にもhe/she,him/herを使う」となっているが、日本語と英語の小説における視点の違いと言語そのものの違いを考慮していないと思われる。