「小僧の神様」論
確かに「小僧の神様」は傑作である。数少ない彼の成功した本格小説の中でも、「麻布六本木辰床の芳三郎は風邪のため珍しく床へ就いた」の、まるで叙事詩のように雄渾な書き出しで始まる「剃刀」や、田舎町に住む瓢弄りの少年を描いて芸術家の運命付けられた受難物語にまで象徴化した「清兵衛と瓢箪」ほどではないが、鮨好きの読者には殊更に好感の持てる佳作には違いない。しかし子細にディテイルに目を通すと、実は随所に構成上の破綻が・特に後半部に・見受けられるのである。第一章から六章までの外面描写が具体的で状況を眼前に彷彿とさせる作者の神業に近い技量と筆力に押しまくられていつの間にか終いまで読み通してしまうが、七章以降読者はAの薄っぺらで平俗な堂々巡りの「変な淋しさ」(しつこく5回も繰り返される。「淋しさ」の単独表現を含めればさらに2回追加)の心理分析に付き合わされることになる。そもそもどうして前半部と後半部のちぐはぐな貼り合わせが生じたのであろうか。
この作品は題名が示すように、冗談でなく優れて宗教的な小説である。宗教的、といってももちろん芥川の「きりしとほろ上人伝」や太宰の「灯籠」や三島の...