体育の授業における

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    資料の原本内容

       「体育の授業における『わかる』と『できる』の関係性とこの両者が学べる授業とはどのような授業であるのかを述べなさい」
     学校体育の役割には、豊かな運動・スポーツの経験によって身体機能や運動能力の発達、健康の維持増進、体力の向上などを図る面や、コミュニケーションを図り相手のことを考えて行動する人間関係作成の基盤、運動遊びやスポーツの経験を生かし生涯にわたってスポーツを楽しめる資質や能力を養う、といった面が見られる。この学校体育の授業において、「わかる」ことと「できる」ことは運動学習の授業構成及び児童の成長のために必要不可欠な存在であるといえる。本稿では、この関係性及び両者を学べるような授業内容・展開について以下のように述べる。
    1. 「わかる」「できる」における二つの対立見解及び「わかる」「できる」の意義
     「できる」ことには「わかる」ことが必要なのか、という問いがある。この問いに対し、そう対立する二つの立場から見られたそれぞれの見解がある。それは次の通りである。
     第一の立場は、「わかる」ことなど不要とする立場である。この主張では、「わかる」ことを求めるには、子どもに「考えさせる」授業展開が自然と増加し、運動の時間が減少する一方で体育の授業に関係のない時間が増加してしまい、子どもが教師の意図するところを理解できないまま授業が終了してしまうことも数多くなる。これでは、子どもはできるようにはならないため、貴重な時間を無駄にしないためにも授業内容の練習時間にもっと力を注ぎ、多くの練習をこなすうちに自然に「できる」ようになる。とされている。
     第二の立場では、「できる」ことは必要ないとしている。ここでは、プロを目指して子どもたちみんな練習するわけではなく、むしろみんなで楽しく授業を進めることこそ必要であり、できなくても楽しむことは可能である。また、子どもたちがみな生まれつき才能を持つ者ではないため、限られた運動時間の中で「できる」ことを求めるのは不可能といえる。さらに、「できる」にもかかわらず、まったく本質を理解しない子どももいるため、「わかる」授業展開によって子どもの学力をも保障すべきである、と主張されている。
     この二つの立場の主張はそれぞれこじつけのようにも思えるが、これを簡潔にすると、第一の立場では「わかる」ことができなくても時間をかけることで自然に「できる」ようになると主張し、第二の立場では時間をいくらかけても「できる」ようにはならず、「わかる」ことを保障すべきであると主張している。しかし、「わかる」と「できる」の関係はこのような両極端のようなものではなく、「わかった上でできるようになる」というものとして考えられる。この結論にたどり着くまでにはいくつかの段階を踏むことが重要であり、「わかるような気がする段階」「できるような気がする段階」「できる段階」に至るとされている。この段階を経る中で、教師が丁寧に指導し授業運営上必要な配慮が適切に行われることで、第一の立場にある人間も第二の立場にある人間も不安を解消することができる、とするのが第三の立場といえる。「わかる」ことを保障し、それを「できる」ことにつなげようとする授業こそが理想の授業構成及び授業展開と考えられる。その授業において、子どもたち自身が相互に関わりを持ち、主体性を持って学習できるようになるのである。
    2. 「わかる」と「できる」を結びつける授業
     「できる」「わかる」を統一化し、教師と子どもが一体化して授業を展開することが理想的と考えられる。そのためには、「わかる」ことは授業における「人間関係の変革」「子どもの主体性の育成」「科学的な技術認識」といった3点をそれぞれ成長させ子どもの発達を促すことが必要である、とする背景が見える。この背景の意図している部分をそれぞれ次のように述べていくこととする。
    1) 「できる」「わかる」の統一を目指す授業では、子供同士の相互関係及び教師と子どもたちの関係という二つの点での人間関係に変化が見られるようになる。
     まず、授業内での子どもたちの人間関係が変化し、学習集団の形成が行われる。全般的に体育の授業では、技能ごとにグループ編成をした上で教師がそれを指導することが多い。技能の低い子どもに対しては教師が直接指導を実施し、技能の高い子どもには自由により高いハードルを狙わせる、といった具合である。しかし、このような授業展開では技能の高い子どもと技能の低い子どもの相互関係が成り立つのはほぼ不可能ともいえる。さらに、このようなグループ編成では「技能の低い」「運動音痴」などといったレッテルをクラスメイトに貼られてしまう子どもも数多くいる。そうした子どもは自分の技能の低さを毎授業ごとにクラスメイトに見られ、教師からの落胆の声を聞き続けることでやがては体育嫌い・運動嫌いになってしまうのである。それを回避するためにも、技能の異なる子どもを同じグループに配置することで技能の高い子どもが技能の低い子どもを指導することや、運動技術のコツなどを教えることができ、技能の低い子どもは自分自身の運動能力を高め、また技能の高い子どもはさらなる技術上のポイント理解などを深めることができる、といった利点が見られるようになる。このような経験を積むことで、互いの才能を認め合い人間関係・友達関係を深め合うことができるようになる。
     また、こうした指導方法によって教師も子どもに対し教えようとして一方的に知識を押し付けるのではなく、子どもたちが運動に対する知識や技能、楽しさを深める上で必要不可欠な存在であることも認識されるようになる。励ますのみならず、子どもたちと一体になって専門的認識や練習の進み具合などを確認できるように留意すべきである。
    2) 「わかる」「できる」の統一を目指す授業においては、子どもの主体性を育成するために、積極的に参加できる授業展開をすべきである。まず、知的欲求を刺激し技術のポイントや人間関係において前述したように異なる技能を持つグループ内での相互指導における内容検討がある。「わかる」ことを保障し、「どのように指導するべきか」「どうやれば自分の考えが相手に伝わるか」を考慮することが重要となる。また、「わかる」ことと「考える」ことが同義であることを理解させ、子ども自身がその練習時間内において考えようとすることで主体性を持って授業に臨もうとする姿勢が見られるようになる。子どもたちが教師にただ頼るのではなく、自らの意志を持って考え、理解しようとする場面を設けることこそ、体育の授業内での主体性の育成につながるのである。
    3) 「できる」ために「わかる」内容とは、運動技術の構造や練習方法に際する知識である。ただ事実を確認するのではなく、子どもたちがそれぞれ理解しやすいよう相互に自らの持つ知識や教師から伝達された情報などを活用していく中で、子どもたちは運動・スポーツの技術を科学的に分析・有効利用できるようになる。順序良く項目立て、与えられた知識と自らの見解を持って練習に取り組むうちに、発見やひらめきを見せるようになる。それをどのようにグループ練習に取り入れるのか、考え確かめ合うことで運動に対する科学的な技術認識を高めることが可能になってくるといえる。
     以上が、「わかる」「できる」の関係性及び授業展開である。
    中島恒雄 「教職科目要説」 ミネルヴァ書房 2007
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         体育                1         大岡曜一郎

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