一、はじめに
承香殿女御・元子は一条院に二番目に入内した。ところが、時めいていたのは周知のとおり定子と彰子の二人であり、元子は尊子・義子共に「日陰の女御」として描かれている。しかしここで注目すべきは、その三人の中でも元子についての記述が、他の二人よりも明らかに多いことだ。特に巻五「浦々の別れ」で元子が水を産む場面は、「中の関白没後の一家の悲劇を短編小説的にしるした一巻としてみる立場からは挾雑物的な感じを打ち消し難いが、(中略)作者にとっては割愛しがたい説話であった」(一)と松村氏が指摘している。それでは何故この場面が割愛しがたかったのだろうか、それについて考えてみる。
二、史実としての水を産む事件
『台記』の仁平三年九月十四日の箇所には、「前一条院御時承香殿女御(中略)依懐妊退出産水、時人為奇異」という記述が見られる。また、元子が水を産んだという事件の記述は、この台記を除いて他に見られない。このことについて、松村氏は「『台記』は本書に拠ったのか(中略)明らかではないが、素朴に事実と信じて記録しただけである。」と考察している。(二)しかし、水が大量に流れ出るという奇病が事実とは認めがたい。佐野氏も「懐妊に非ずして一種の病なりし也、倭名抄疾病部 〈波良不久流〉とある」が、水を出す病気は不審だと述べている。(三)「水がとめどもなく流れ出たというようなことは別として、全体が虚構になるものとも思われない」(四)と、何を産んだにしろ、出産自体は史実であったと考えられている。
三、意図的な配置換え
この巻は『源氏物語』「明石」巻の影響が顕著に現れており、須磨・明石に流される光源氏に伊周を模倣した、いわゆる貴種流離譚を核に展開していく形をとっている。例えば、伊周を光源氏に似た美貌の公達と評しているのだが、以前の伊周像と明らかに食い違いが見られる。
元子が水を産む場面に作者がこめたもの
一、はじめに
承香殿女御・元子は一条院に二番目に入内した。ところが、時めいていたのは周知のとおり定子と彰子の二人であり、元子は尊子・義子共に「日陰の女御」として描かれている。しかしここで注目すべきは、その三人の中でも元子についての記述が、他の二人よりも明らかに多いことだ。特に巻五「浦々の別れ」で元子が水を産む場面は、「中の関白没後の一家の悲劇を短編小説的にしるした一巻としてみる立場からは挾雑物的な感じを打ち消し難いが、(中略)作者にとっては割愛しがたい説話であった」(一)と松村氏が指摘している。それでは何故この場面が割愛しがたかったのだろうか、それについて考えてみる。
二、史実としての水を産む事件
『台記』の仁平三年九月十四日の箇所には、「前一条院御時承香殿女御(中略)依懐妊退出産水、時人為奇異」という記述が見られる。また、元子が水を産んだという事件の記述は、この台記を除いて他に見られない。このことについて、松村氏は「『台記』は本書に拠ったのか(中略)明らかではないが、素朴に事実と信じて記録しただけである。」と考察している。(二)しかし、水が大...