一、講義のまとめ―災異思想の変遷
漢代において、陰陽五行説と天人相関のことわりとを結びつける事により、自然災異の責任を、宰相罷免というかたちにおとしこむ現象がみられた。つまり、もし人君が天の意志に反する政治を執れば、天はまず小さな災い(災)を下す。それでも改める姿勢が見られなければ大きな災い(異)を下し、ついには国を滅ぼすというものである。宰相が天子の身代わりとして責任を負うことにより、咎を天子にまで及ぼさないための策であったと考えられている。この思想を災異思想と呼び、董仲舒が整理したものである。彼は儒家以外の諸子百家を批判して儒教を国教化するよう献策し、役人登用試験に際し、科挙を取り入れた人物でもある。ちなみに、儒教を説いた孔子であるが、姓は孔、名は丘(尼丘というところにお墓があったため、地名からとった)、字は仲尼、(仲とは次男坊であることを指す)魯の国の人である。名とは、生まれたらつけるもので、四つの意味がある。一つ目は自称、二つ目は目上から目下への呼びかけのとき、三つ目は目上を尊重するために、目下や身内の者を貶めるためである。なぜなら、先生は、目下には字は使わずに、名前しか覚えないからだ。最後に、けんかしたり、相手をののしる時に名を使う。孔子批判が起こったとき、孔子を孔丘と呼んでいたのもその一例である。また、字とは成人したらつけるものであり、兄弟の順番がわかるものであった。長男には伯(孟)、次男には仲、三男から最後から二番めまでは叔、最後に生まれた子を季とし、字に組み込まれるシステムであった。仲間同士は、字で呼び合うが、名前を呼び捨てにすると無礼であると考えられていた。さて、董仲舒その人は、幼いときから『春秋』を学び、公羊学を修め、景帝の世に博士、武帝の世に江都国の丞相となった人物である。
一、講義のまとめ―災異思想の変遷
漢代において、陰陽五行説と天人相関のことわりとを結びつける事により、自然災異の責任を、宰相罷免というかたちにおとしこむ現象がみられた。つまり、もし人君が天の意志に反する政治を執れば、天はまず小さな災い(災)を下す。それでも改める姿勢が見られなければ大きな災い(異)を下し、ついには国を滅ぼすというものである。宰相が天子の身代わりとして責任を負うことにより、咎を天子にまで及ぼさないための策であったと考えられている。この思想を災異思想と呼び、董仲舒が整理したものである。彼は儒家以外の諸子百家を批判して儒教を国教化するよう献策し、役人登用試験に際し、科挙を取り入れた人物でもある。ちなみに、儒教を説いた孔子であるが、姓は孔、名は丘(尼丘というところにお墓があったため、地名からとった)、字は仲尼、(仲とは次男坊であることを指す)魯の国の人である。名とは、生まれたらつけるもので、四つの意味がある。一つ目は自称、二つ目は目上から目下への呼びかけのとき、三つ目は目上を尊重するために、目下や身内の者を貶めるためである。なぜなら、先生は、目下には字は使わずに、名前しか覚え...