地理学の体系化に必要なこと
始めに、これまでに多くの地理学者により地理学とは何か、が論ぜられてきている。そしてそこで「地理学の研究対象」,「地理学の方法論」などが体系化されてきた。そこで研究対象と方法論をみれば体系化についてわかると考え調べることにした。しかし,現代に入り,地理学は大きな「変革期」を迎えてた。近代に確立した「伝統的地理学」の「失速」,「伝統的地理学」を「失速」するに至らした「新しい地理学」の誕生,そして現代におけるこの「新しい地理学」の「失速」など,地理学を取り巻く環境は目まぐるしく変化していった。そのため,現代における地理学は,方法論を持ち得ていないという特殊な状況下にあり,「方法論の再認識」が重要な課題となっている。また,そのことは,再び「地理学とは何か」を明らかにすることと直結しており,地理学を体系化するということにもつながり今後の地理学の発展のためにも,その定義付けが強く望まれている。
一般的に,伝統地理学の確立に重要な役割を果たしたのは,フンボルトとリッターだとされている。 フンボルト(1769-1859)は,その著『コスモス』において,自然と人間との関係性を明らかにしている。その中でフンボルトは,宇宙から地球を見つめ,地球から地域を見つめ,そして地域から人間を見るという作業を行っている。これは,段階的な流れを踏むことにより,その地域に存在する自然や人間を,個々の存在として捉えるのではなく,一体的に捉え考察することが重要だと考えたからだ。すなわち,「有機体的世界観」による方法論を確立し,科学的な地理学の第一歩を明示したのである。また,フンボルトは,南米での冒険により,「植物地理学」を確立している。この「植物地理学」においても『コスモス』で明 示した「有機体的世界観」による方法論が活かされている。ここでは個々の植物をただ見るのではなく,垂直(高度)方向,水平(緯度)方向に広がる植生分布を,気候や土壌といった「無機質的自然条件」により観察し,「類型化」を行った。実質,伝統地理学の先駆けとなった。
一方,リッター(1779-1859)は,フンボルトが伝統地理学を「明示」したのに対し,『一般比較地理学』を刊行し,伝統地理学を「体系化」した。リッターは『一般比較地理学』において,地理学の原点ともいうべき5つの方法論を定義付けしている。まず,「対象の限定」である。フンボルトが宇宙から海 底までとその対象が広域に渡っていたのに対し,研究対象を「地表」に限定した。すなわち,人間が活動し生活できる範囲に限定し,地理学という学問の領域を 明確化した。第二に,「地的統一体」としての地域の捉え方である。これは,地域に存在している自然や人間などを一体的な有機体として捉えたもので,フンボルトの「有機的世界観」が継承されている。第三に,「比較類型学」の確立である。これは,ある地域を念頭において,地域と地域の「比較」をし,その「類型化」を試みていく方法である。山口不二雄も,「場数を踏むことにより類型の世界が生まれる」と指摘している。
第四に,「原型」の考察である。「比較」をし,「類型化」を行うことにより,共通した集合体を見出すことができ,「原型」を考察していくことが可能となる。第五に,以上の4点を踏まえた「地誌」の記述である。地誌を記述するためには,他の地域に目を向けなければ不可能である。マルトンヌは,リッターの方法論について,次のようにまとめている。リッターにおいては「広域的な視野に基づく考察の重要性が強調された。特定の現象を研究する際には,類似の現象が観察される他の地域につねに目をむけねばならない。特定の場所の研究は,地表の全体的な認識と決して無関係でないことが主張された。いかなる国であれ,地域であれ,まず第一に考察すべきは,世界全体の中に占めるその位置である」。このように,フンボルトにより「有機体的世界観」および「類型化」が確立し,リッターにより地理学の原点である「地誌」が確立した。この両者による方法論の確立は,これまで科学的な方法論を持ち得なかった地理学の確立であり,伝統地理学の確立でもあった。
チューネンは,1803年に『チューネン圏モデル』を著し1826年には『孤立国』を著した。チューネンは,先の『チューネン圏モデル』において,仮想の大都市を中心とした地域における農業空間の分化を,モデルとして示した。これは,大都市からの距離により栽培される農作物が規定され,その要因として,距離・費用・地代などが関わっていることを指摘したものである。『孤立国』においては現場を考察した上で,「限界地代曲線」により,市場と地代,そして距離の関係を用いて理論的に実証している。そして,「特殊性」ではなく「一般法則性」があることを指摘した。その後,『チューネン圏モデル』を応用し理論展開したのが,ウェーバー(1868-1958)とクリスタラー(1893-1969)である。まずウェーバーは,地域景観の変化の要因が「資本主義による工業化」にあるとし,現実に存在する輸送費指向・労賃指向・集積指向などの要素を踏まえてモデル化していった地理学者である。このウェーバーの工業立地論で,最も注目すべきことは「経済動向」を理論に取り入れたことである。これまでの伝統地理学においては「経済動向」は無視されてきた。ウェーバーは,その当時,目の前で変容していく地域景観を説明するためには「資本主義による工業化」,そして「経済動向」抜きにしては限界があるとしたのだった。この「経済動向」の最小単位を構成しているのは「人」である。ウェーバーは,実は「地域」が考察する単位の最小単位ではなく,「人」が最小単位であり,「経済動向」は「都市」や「農村」における「人」の動向により規定されるものとした。一方,クリスタラーの「中心地理論」を補完し,クリスタラー以上の一般的なモデル化を実現したのがレッシュ(1906-1945)である。レッシュは,その著『経済立地論』において,企業の立地および生産配置と市場圏の一般化を試み,一般均衡理論を確立している。
地理学とは,「面」を把握し「点」を考察する学問である。「伝統地理学」においては「面的な空間認識」が重要視されていた が,面の構成要素である点に関しては考察しないという性格を有していた。一方,「経済立地論」においては「点」考察を重要視するといった感じで,互いに対照的な研究対象となっていた。 しかし,これからの地理学においては,両者の融合が必要不可欠である。ある地域を考察するためには,全体でその地域がどのような位置づけにあり,地域内の構成要素である点がどのような動向を有しているのかを把握しなければ,考察することは不可能である。「面」の把握および「点」の考察は,無論,文献などにより把握することが可能である。現在においては情報技術の発達により,インターネットで簡単に情報を調達することができる。しかし,地理学においては,フィールドワークを通じて体感的に把握することが重要である。伝統地理学者も,自らの足で歩き,論文を執筆していった。近年の地理学の論文,とくに人文地理学の論文をみていると,行政 資料や文献,白書などの統計を基に書かれたものが目立つようになった。そのため,地理学でなくても,経済学や社会学でも通用するのではないかと思われる論文が多々見受けられる。学問の地理学として確立するためには,フィールドワークを通して点の内面を調査するといった研究手法が必要だといえる。また,フィールドワークを通じて,「面」を把握し「点」を考察するだけでは,現状を把握したに過ぎない。そのため,その地域が現在に至るまでに,どのような歴史的経過をたどってきたのかをも把握しなくてはならない。 歴史的資産,例えば寺院を考察するにあたっても,必然的に立地動向だけでなく,その寺院の歴史的経過を考察し,発生要因を見出していくことが重要となってくる。歴史的な視覚が入ることにより、空間のみならず、時間の枠をも越えることができる、それが地理学である。さらに歴史的視野を取り入れることにより,「自然地理学分野の諸成果や,環境諸科学,経済学,政治学,民族学,歴史学等の幅広い学問領域の成果を活用して,とくに資本主義社会における地理的諸現象の形成過程を説明する」ことも可能になってくる。その結果,地理学とは面を把握し点を考察する学問であり,地理学を体系化するにはフィールドワークを研究手法とする学問であるという答にたどりついた。さらに歴史学を取り入れ空間だけでなく時間の枠をも超えられる学問であることも定義した。そして何よりも,地理学が,地域住民,そして地域社会に寄与することのできる学問として定義付けることができた。地理学を体系化するのに最も必要なものとは?という先の問いに対して自分が出した答えは「先人の営みを知り面を把握し点を考察し研究手法としてはフィールドワークを行うこと」であり
そうしたことの積み重ねによって体系化される学問が地理学であると考察を終えます。