表現における知識と多様性
──『小倉百人一首』への考察と鑑賞から──
「多様性」という言葉が、近年専らキーワードとして扱われている。それは民族や宗教という場において認知されつつあるそれのように、いわゆる文化人類学的な観点からも顕著に表れているのであるが、個人として触れられる範疇で、その傾向を感じ取ることもまた容易である。例えば、日常的に取り交わす会話の内容における「共有知識」の減少がその具体例として挙げられる。共有知識とは、「常識」・「教養」という言葉でも換言することができる。多様化が叫ばれる趨勢で、共有されていなければならなかった知識までもが細分化され、取捨選択されるようになった。それは多くの場合、その言葉の上に「例の」という連体詞を付けられる類の知識である。または、発せられた者の婉曲によって原型を留めていない状態になっても、ほんの数秒後には、その機知が面白みとなって原型を凌駕して相手に届く、そういった知識である。それは時に会話を円滑にし、ウィットに富んだものにせしめ、豊かにする。共有知識が豊富であればあるほど、会話は創意工夫され、熟達したものとなるだろう。なぜなら「説明」という行為...