Keith Thomas 『歴史と文学』第1章歴史と文学の要約

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    資料紹介

     現代、歴史研究と文学研究には深い溝がある。その歴史と文学という、ふたつの中心的な学問分野の歩み寄り、あるいは和解の提示がこの論文のテーマとなっている。

     歴史学者は、文学を想像の産物だと定義付け、文学から時代のあるがままの姿を知ることは不可能に近いと主張してきた。また社会学者も、状況の真偽のわからない文学史料など歴史学者にとって無用の長物に過ぎないと主張している。さらに、文学史料は降服不可能なほどサンプリングが難しいため、文学史料にあらわれた証拠は簡単に計量化できないという経済学者の主張も存在する。このように、歴史学をより「科学的」なものにしようと努力している今世紀の歴史家は、想像の産物である文学に対して非常に冷淡な態度を表明していて、文学史料を史実として歴史に援用することなどは杜撰極まりない方法であると信じて疑わないのである。
     一方現代の文学学者も、歴史の援用には好意的ではない。最近の文学批評は、作品出版当時の状況や作者の生活、読者とその反応を採りあげるいわば伝統的な研究から、現代の読者と文学作品との直接的なつながりを重視し、文学の自立性を確立する方向に傾いている。そして、文学の自立性の確立とは、文学の歴史からの開放にほかならない。20世紀初頭のロシアフォルマニストは、文学とはいわゆる外界の「現実」からではなく、文学作品間から生まれるインターテクストであり、「現実」は文学作品を理解するうえで何の役にも立たないと主張した。現代の作者と文学作品との直接的な関係を重視した彼らからすれば、文学を歴史的手法で研究することなど軽蔑の対象でしかなかった。その後、ロシアフォルマニストの後継者である「新批評派」は、文学作品とは、時代とはもちろんのこと、書いた当の本人からも独立したものであるとし、使われている形式や技法を中心に掘り下げていく手法を用いた。

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    現代、歴史研究と文学研究には深い溝がある。その歴史と文学という、ふたつの中心的な学問分野の歩み寄り、あるいは和解の提示がこの論文のテーマとなっている。
     歴史学者は、文学を想像の産物だと定義付け、文学から時代のあるがままの姿を知ることは不可能に近いと主張してきた。また社会学者も、状況の真偽のわからない文学史料など歴史学者にとって無用の長物に過ぎないと主張している。さらに、文学史料は降服不可能なほどサンプリングが難しいため、文学史料にあらわれた証拠は簡単に計量化できないという経済学者の主張も存在する。このように、歴史学をより「科学的」なものにしようと努力している今世紀の歴史家は、想像の産物である文学に対して非常に冷淡な態度を表明していて、文学史料を史実として歴史に援用することなどは杜撰極まりない方法であると信じて疑わないのである。
     一方現代の文学学者も、歴史の援用には好意的ではない。最近の文学批評は、作品出版当時の状況や作者の生活、読者とその反応を採りあげるいわば伝統的な研究から、現代の読者と文学作品との直接的なつながりを重視し、文学の自立性を確立する方向に傾いている。そして、文学の自...

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