倫理的主観主義とは、我々がいかなる道徳上の判断をするにせよ、それは単にその人自身の個人的な感情を述べているだけであり、道徳に関する限り「客観的」に正しいことや間違いなどはないという、道徳上の判断の本性についての理論である。そしてこの理論の第一段階として、単純な主観主義が挙げられる。
単純な主観主義とは、ある人があることを道徳的によいとか悪いとかいうのは、彼がそれを是認、または否認しているという個人的な感情を表しているに過ぎないという考え方である。これは、ある人が「Xは道徳的に容認できる」「Xは正しい」「Xはよい」「Xは為されるべきである」と言ったとしても、それはすべて「私はXを容認する」ということを意味し、同様に「Xは道徳的に容認しがたい」「Xは間違いである」「Xは悪い」「Xは為されるべきではない」と言ったとしても、それはすべて「私はXを否認する」ということを意味するに過ぎないということである。
しかし、この単純な主観主義に対して二つの異論がある。第一の異論として、単純な主観主義が正しいのならば、我々は道徳上の判断において無謬である、ということが挙げられる。なぜならば、単純な主観主義においては、我々がいかなる道徳上の判断をするにせよ、それは単に自身の個人的な感情を述べているだけであり、「客観的」な正しさとか間違いなどは存在しない。それゆえ彼が誠実に本心を語っている限りにおいては、彼が誤ることはありえない。しかし我々は無謬ではない。誠実に本心を語る場合でさえ誤ることがある。それゆえ、単純な主観主義が正しいと言うことはありえない。これが単純な主観主義に対する第一の異論である。
そして、単純な主観主義に対する第二の異論として、単純な主観主義では倫理における不一致と言う事実を説明できないということが挙げられる。
倫理的主観主義とは、我々がいかなる道徳上の判断をするにせよ、それは単にその人自身の個人的な感情を述べているだけであり、道徳に関する限り「客観的」に正しいことや間違いなどはないという、道徳上の判断の本性についての理論である。そしてこの理論の第一段階として、単純な主観主義が挙げられる。
単純な主観主義とは、ある人があることを道徳的によいとか悪いとかいうのは、彼がそれを是認、または否認しているという個人的な感情を表しているに過ぎないという考え方である。これは、ある人が「Xは道徳的に容認できる」「Xは正しい」「Xはよい」「Xは為されるべきである」と言ったとしても、それはすべて「私はXを容認する」ということを意味し、同様に「Xは道徳的に容認しがたい」「Xは間違いである」「Xは悪い」「Xは為されるべきではない」と言ったとしても、それはすべて「私はXを否認する」ということを意味するに過ぎないということである。
しかし、この単純な主観主義に対して二つの異論がある。第一の異論として、単純な主観主義が正しいのならば、我々は道徳上の判断において無謬である、ということが挙げられる。なぜならば、単純な主観主義に...