『本当の戦争の話をしよう』から読み取れること

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    資料紹介

    ティム・オブライエンの「本当の戦争の話をしよう」を読んだが、作者がわれわれ読者の理性にではなく、本能的部分、感覚の部分に語りかけているのをひしひしと感じた。特に戦場の場面の描写がそうであった。戦場において「死とすれすれになった時ほど激しく生きているのだ」と感じるのは、フォーディズムに端を発する大量消費時代を生きるうちに規格化された社会に慣れてしまって、生きているという感覚を失ってしまったからではないだろうか。実際作者は、戦争に行かねばならないという現実だけでなく、豚肉工場でのルーティンワークをし続けるという現実からも逃れなければ「自分の人生がどうしようもなく落ちぶれていくように思え」、身動きがとれなくなると思ったからこそカナダを目指したという風に読み取れる。結果として戦争には行ったけれども、日常の代わり映えの無さに押しつぶされそうになっていたのは事実であろう。そして、偶然遭遇した水牛の子をなぶり殺しにし、あるいは「実を言えば戦争はまた美しくもあるのだ。君は戦闘のすさまじいまでの荘厳さに息を呑まないわけにはいかないだろう。」などと感じるのは、「日常」の中で失われた、生きているという実感を取り戻そうという行為に思えてならないのだ。この考えは飛躍しすぎかもしれない。しかし、この便利すぎる文明社会に生きている中で失った身体性というものは大きいのではないか。いくら作者の創作とはいえ、生粋のアメリカ人のメアリ・アンがベトナム魅せられて野性的になり、「夜にあそこにいると、私は自分の体に密接しているように感じるの。体の中で自分の血が流れるのを感じるの。肌も爪も、何もかも、生きているのよ。」などと語るようになった場面はそれを端的に示していて印象深い。

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    ティム・オブライエンの「本当の戦争の話をしよう」を読んだが、作者がわれわれ読者の理性にではなく、本能的部分、感覚の部分に語りかけているのをひしひしと感じた。特に戦場の場面の描写がそうであった。戦場において「死とすれすれになった時ほど激しく生きているのだ」と感じるのは、フォーディズムに端を発する大量消費時代を生きるうちに規格化された社会に慣れてしまって、生きているという感覚を失ってしまったからではないだろうか。実際作者は、戦争に行かねばならないという現実だけでなく、豚肉工場でのルーティンワークをし続けるという現実からも逃れなければ「自分の人生がどうしようもなく落ちぶれていくように思え」、身動きがとれなくなると思ったからこそカナダを目指したという風に読み取れる。結果として戦争には行ったけれども、日常の代わり映えの無さに押しつぶされそうになっていたのは事実であろう。そして、偶然遭遇した水牛の子をなぶり殺しにし、あるいは「実を言えば戦争はまた美しくもあるのだ。君は戦闘のすさまじいまでの荘厳さに息を呑まないわけにはいかないだろう。」などと感じるのは、「日常」の中で失われた、生きているという実感を...

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