今回は小熊英二『<日本人>の境界』、石田雄『記憶と忘却の政治学:同化政策・戦争責任・集合的記憶』の両著を読んだが、日本人あるいは近代日本という概念の可動性を改めて認識する結果になった。具体的には近代日本の範疇に対して、アイヌ、沖縄、台湾、朝鮮などをどう位置づけるかということ、あるいはその政策的展開を振り返ることで、国民的アイデンティティの今後の在り方を考える契機になるわけだ。小熊氏が先の著の序章でいうように、一般的に沖縄や北海道は一貫して日本であって、朝鮮及び台湾は日本ではなく一時的に植民地として領有されていたと、私を含む現代人は把握しがちであるが、そもそも日本、植民地という境界設定自体が可動的で、しかもそれぞれの内部での問題は複雑であることを忘れてはならないだろう。小熊氏は、編入された周辺地域を論じた言説を分析するにあたり、その地域を「日本人」の境界の内側に位置づけることを「包摂」、外側に位置づけることを「排除」ということにした。私もこの定義に沿って自分なりの論の展開を試行したいと思う。
2003年度 社会学特殊講義 第3回レポート
今回は小熊英二『<日本人>の境界』、石田雄『記憶と忘却の政治学:同化政策・戦争責任・集合的記憶』の両著を読んだが、日本人あるいは近代日本という概念の可動性を改めて認識する結果になった。具体的には近代日本の範疇に対して、アイヌ、沖縄、台湾、朝鮮などをどう位置づけるかということ、あるいはその政策的展開を振り返ることで、国民的アイデンティティの今後の在り方を考える契機になるわけだ。小熊氏が先の著の序章でいうように、一般的に沖縄や北海道は一貫して日本であって、朝鮮及び台湾は日本ではなく一時的に植民地として領有されていたと、私を含む現代人は把握しがちであ...